第9話:プルタブの音

第9話:プルタブの音


なんか、すごいことになってきた。


そう思ったのは、新聞屋さんがドアの前に立っていたときだ。


「いつもありがとうございます。これ、ほんのお礼です」


差し出されたのは、缶ビールが二本。

ずっしり冷たい。


「あら、どうも……」


受け取ったはいいけれど、文子は一瞬、戸惑った。

今までなら、こういうものは押し入れの奥行きだった。

もらっても飲まない。飲めないわけじゃない。ただ、必要なかった。


「じゃ、失礼します」


ドアが閉まる。

静けさ。


「……ビール、か」


缶を持ったまま、しばらく立ち尽くす。


喉が、からからだった。


「あれ?」


気のせいかと思った。

でも、確かに渇いている。

水じゃなくて、もっと、こう……。


「……冷蔵庫、入れとく?」


独り言が、少し間延びする。


冷蔵庫を開けると、ひんやりした空気が顔に当たった。

缶を棚に置く。

カン、と小さな音。


その瞬間、膝がずきりとした。


「……いった」


階段じゃない。

走ってもいない。

ただ、立っていただけなのに。


肩も、重い。

いや、重いなんて言葉じゃ足りない。


「……髪、とかすか」


洗面所でブラシを取る。

腕を上げた瞬間、肩が悲鳴を上げた。


「っ……!」


声が出なかった。

燃えるみたいに、じくじくと痛い。


「何が起こってるの……?」


鏡の中の自分が、少し老けて見えた。

いや、老けたんじゃない。

疲れている。


夜。


布団に入っても、眠れない。

肩が、うずく。

じっとしているのに、熱を持っている。


「……火、ついてるみたい」


時計を見る。

二時。

三時。


身体のあちこちが、次々に声を上げる。


膝。

腰。

首。


まるで、せき止めていたダムが、

一気に決壊したみたいだった。


「ちょっと……待って」


誰に言うでもなく、天井に向かって呟く。


「順番にして」


答えはない。

痛みだけが、遠慮なく押し寄せる。


明け方、ようやく眠りに落ちたが、

起きたときには、さらにだるかった。


身体を引きずるように、台所へ行く。


「……だる」


喉が、また渇いている。


冷蔵庫を開けると、

昨日入れたビールが、そこにあった。


白い缶。

水滴。


「……昼間っから、ねえ」


そう言いながら、手が伸びる。


「……まあ、いっか」


プルタブに指をかける。


「よいしょ」


プッシュー。


小気味いい音が、静かな部屋に響いた。


「あー……」


グラスなんて使わない。

そのまま、口をつける。


ごく、ごく。


冷たい液体が、喉を通って、

胸の奥に落ちていく。


「……ぷはー」


思わず、声が出た。


「……どこのおやじよ、私」


くすっと笑うと、

肩の力が、ほんの少し抜けた。


不思議なことに、

さっきまでの燃えるような痛みが、

一歩だけ、後ろに下がった気がした。


「……ずっと、止めてたんだ」


缶を持つ手が、少し震える。


「疲れた、って言うの」


誰にも言わず、

自分にも言わせず。


数字は見てた。

生活は守ってた。

未来も、計算してた。


でも。


「体は……計算、無視するのね」


二口目を飲む。


「……おいしい」


それが、少し悔しかった。


「こんなになるまで、気づかないなんて」


ビールは半分残した。

酔いたいわけじゃない。


ただ、

今の自分を、許したかった。


「今日は……これでいい」


缶を置くと、

また小さな音がした。


カン。


それは、崩壊の音じゃなかった。

長いあいだ張りつめていたものが、

ほどける音だった。


文子は、ソファに身を沈める。


「……やれやれ」


どこかのおやじみたいに、

そう呟いて、目を閉じた。


体はまだ痛い。

でも、心は少しだけ、静かだった。


ダムは壊れた。

でも、水は――

ようやく、流れ始めただけかもしれない。


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