第8話:そんなばかな

第8話:そんなばかな


朝だったのか、昼だったのか。

カーテンの隙間から入る光が白く、文子は布団の中で目を開けた。


「……おかしいわね」


時計を見る。十時を回っている。

昨夜は早く眠ったはずだった。


身体が重い。

鉛を詰め込まれたみたいに、腕が上がらない。


「疲れてるだけよ」


声に出してみる。

声は思ったより掠れていた。


台所に立つ。

ポットに水を入れようとして、手が止まる。


「……あら」


蛇口をひねるのが、面倒だ。

理由が見つからない。ただ、面倒。


胸の奥が、すうっと冷える。


「退職うつ?……そんなばかな」


昨日まで、自由を喜んでいたはずだ。

数字も、計算も、全部見えている。


なのに。


ソファに腰を下ろすと、立ち上がる気力が消えた。

陽の当たる場所なのに、寒い。


インターホンが鳴る。


「……はーい」


リサだった。


『顔、見に来た』

「どうしたの?」

『声』


玄関に立つ文子を見て、リサは一瞬、言葉を失った。


『……文子?』

「なに?」


『なんか……』

「なによ」


リサは靴を脱ぎながら、声を落とした。


『小さくなった』


「失礼ね」


そう言おうとして、言えなかった。

確かに、身体が内側に縮こまっている。


『ご飯、食べた?』

「……食べてない」


『いつから?』

「……わからない」


湯を沸かす音が、やけに大きい。

湯気が目にしみる。


『文子』

「なに」


『病院、行こう』

「は?」


文子は思わず笑った。


「大げさよ」

『大げさじゃない』


リサの声は、柔らかいけれど揺れていなかった。


『退職した直後ってね、』

「“気が抜ける”んでしょ?」


文子は先回りして言った。


「そんなの、知ってる」

『知ってる人ほど、危ない』


文子は黙った。


『眠れてない』

「……」

『食べてない』

「……」

『楽しみにしてたこと、今できる?』


文子は答えなかった。

答えが、喉で止まった。


「……陶芸、行けてない」


声が、小さい。


『ほら』


リサは、文子の手を握った。

指先が、冷たい。


『ねえ、文子』

「……なに」


『あんた、三十五年、走ってきたのよ』

「走ってないわ」

『走ってた』


リサは、ゆっくり言った。


『止まった瞬間に、体が言うの』

「……何を」

『“今までの分、感じさせて”って』


文子の目の奥が、じんとした。


「……私、弱くなったの?」

『違う』


『ようやく、正直になっただけ』


午後、二人で病院へ向かった。

待合室の椅子は硬く、蛍光灯が白い。


名前を呼ばれたとき、文子は一瞬、立てなかった。


診察室は静かだった。

医師は、穏やかな声で言った。


「最近、生活が変わりましたか」


文子は、少し考えてから答えた。


「……仕事を、終えました」


「大きな変化ですね」


その一言で、胸の奥が崩れた。


「頑張りすぎた方ほど、あとから出ます」


帰り道、夕暮れの空が低かった。


「診断書……もらっちゃった」


文子は、紙を見下ろした。


『いいじゃない』

「……情けない」

『どこが』


リサは、はっきり言った。


『使える制度は、使えばいい』

「……」

『休むって、逃げじゃない』


風が吹き、木の葉が擦れる。


「私、計算は得意だったのに」

『何が?』

「自分の疲れ」


リサは、少し笑った。


『そこは、ずっと苦手だったわね』


夜、布団に入る前、文子は窓を開けた。

冷たい空気が、肺に入る。


「……今日は、ちゃんと休もう」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


退職うつ?

そんなばかな、と思っていた。


でも今は、こう思う。


「……そんなばか、じゃなかったのね」


身体は、ちゃんと知らせてくれていた。

今まで、聞こえなかっただけで。


文子は目を閉じ、

何も生産しない夜に、身を委ねた。


それは、怠けではなく、

回復のはじまりだった。


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