第7話:うまい話の匂い

第7話:うまい話の匂い


雨の音が、窓を細かく叩いていた。

文子は湯を沸かしながら、今日は少し湿った空気だと思った。

梅雨にはまだ早いはずなのに、胸の奥までじっとりする。


インターホンが鳴る。


「……はーい」


ドアの向こうに立っていたのは、教え子のひとりだった。

三十代半ば。スーツの肩が、ほんの少し濡れている。


「先生、お久しぶりです」

「まあ……久しぶりね。雨、大丈夫だった?」


玄関に入ってきた瞬間、甘い香水の匂いがした。

昔の彼にはなかった匂いだ。


「急にすみません」

「いいのよ。お茶、淹れるわね」


ポットから湯気が立ちのぼる。

文子は、その向こうで彼が落ち着かずに部屋を見回しているのを感じた。


「……先生、相変わらずですね」

「何が?」

「きれいにしてる」


文子は、カップを置きながら答えた。


「散らかすほど、物を持ってないだけよ」


沈黙。

雨音が、少し強くなった。


「……実は」

「ええ」


文子は、腰を下ろし、相手の顔を正面から見た。


「投資の話があって」

「……そう」


声色は変えなかった。

ただ、胸の奥で、小さく警報が鳴った。


「すごく、いい話なんです」

「そう言う話は、だいたいそう言うわね」


彼は笑った。

その笑顔が、どこか急いでいる。


「元本保証で、年利が……」

「いくら?」


彼は、少し間を置いた。


「……十二パーセント」


文子は、カップに口をつけた。

熱い。舌の先がじんとする。


「それで?」

「先生、退職金も入ったって聞いて」


文子は、そっとカップを置いた。


「誰から?」

「……リサさんが」


一瞬、胸がひやりとした。

だが、すぐに息を整える。


「それで、あなたはその話に、いくら入れたの?」

「……まだです」


「まだ、ね」


雨音の向こうで、車が通り過ぎる。


「先生なら、分かると思って」

「分かるわよ」


文子は、静かに言った。


「それが“うまい話”だってことは」


彼の眉が動いた。


「でも、資料もちゃんとしてて」

「“ちゃんとして見える”資料は、作れるの」


「知り合いが、もう儲けてて」

「最初は、必ずそうなの」


彼は、少し苛立ったように椅子に深く座り直した。


「先生、疑いすぎですよ」

「疑うのが仕事だったの。ずっと」


文子は、指先でカップの縁をなぞった。

陶芸教室で作った、歪な縁。


「ねえ」

「はい」


「あなた、その話を断ったら、どうなる?」

「……どうって」


「連絡、来なくなる?」

「……たぶん」


文子は、ゆっくり頷いた。


「それが答えよ」


部屋に、雨の匂いが流れ込む。


「私はね」

「はい」


「“分からないもの”には、お金を出さない」

「でも、先生、投資は——」

「分かってる」


文子は、遮った。


「だからこそよ」


彼は黙り込んだ。

手元の資料が、少し湿っている。


「お金はね、急かさない」

「……」

「急かしてくるのは、人」


彼は、唇を噛んだ。


「……怖いんです」

「何が?」


「このままじゃ、置いていかれそうで」


文子は、少しだけ表情を緩めた。


「置いていかれる人生も、悪くないわよ」

「先生……」


「少なくとも、“騙される人生”よりはね」


沈黙。

長い雨音。


彼は、ゆっくり資料をカバンにしまった。


「今日は……話、聞いてもらっただけで」

「それで十分」


立ち上がるとき、彼の肩の力が少し抜けたのが分かった。


「先生」

「なに?」


「……また、来てもいいですか」

「ええ。投資の話じゃなければ」


彼は、苦笑して頷いた。


ドアが閉まり、部屋に静けさが戻る。


文子は、深く息を吐いた。


「……あぶない、あぶない」


カップの底に残った紅茶は、もう冷めている。

それでも、心は不思議と温かかった。


“うまい話”を断った日。

それは、何かを失った日ではない。


守った日だ。


文子はそう思いながら、

雨の音に耳を澄ませた。


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