第6話:数字の向こう側
第6話:数字の向こう側
午後の陽が、テーブルの上の書類を照らしていた。
白い紙に並ぶ数字は、冷たいはずなのに、どこかあたたかく見える。
「……二千万円、ね」
文子は、そっと声に出した。
退職金の通知書を、指でなぞる。紙の感触が少しざらついている。
インターホンが鳴った。
「はーい」
ドアの向こうに立っていたのは、リサだった。紙袋を抱えている。
『焼き芋、買いすぎちゃって』
「ちょうどいいわ。頭使うと、お腹空くのよ」
二人は向かい合って座り、湯気の立つ湯呑みを手にした。
『……それ、退職金?』
「ええ」
文子は書類をリサのほうへ少し寄せた。
『二千万円……すごい額ね』
「額面だけ見れば、ね」
文子は苦笑した。
「でも、そのまま全部もらえるわけじゃないのよ」
『税金?』
「そう」
文子は、ペンを持ち、紙の端に小さく円を描いた。
「まずね、勤続年数で“控除”が決まるの」
『控除……免除みたいな?』
「非課税の枠、と思ってもいいわ」
リサは焼き芋を割りながら、湯気に顔を近づけた。
『じゃあ、文子は何年?』
「三十五年」
『うわ、ベテラン』
文子は笑いながら、続けた。
「二十年を超えるとね、
八百万円に、年数分が足されるの」
『……ちょっと待って、今、計算していい?』
リサはスマホを取り出し、眉をひそめた。
『えっと……』
「最終的に、控除は千八百五十万円」
『そんなに!?』
「だから、課税されるのは……残りの百五十万円」
リサの目が大きくなる。
『え、それだけ?』
「それを、さらに半分にするの」
『……七十五万円?』
文子は頷いた。
「そこに税率がかかるだけ」
『じゃあ、税金……』
「十万円ちょっと、かしら」
焼き芋を持つリサの手が止まった。
『……え?』
「長く働いた人ほど、
“静かに守られる仕組み”なのよ」
沈黙が落ちた。
外で、鳥の羽音がした。
『ねえ……』
「なに?」
『十五年くらいで辞めた人は?』
「控除が少ないから……二百万円以上、持っていかれるわ」
リサは唇を噛んだ。
『知らなかった……』
「知らない人、多いの」
文子は、カップを両手で包んだ。
陶芸教室で作った、少し歪んだマグカップ。
「だからね、私は数字を“怖がらなかった”だけなの」
『……賢かったのよ』
「違うわ」
文子は、首を横に振った。
「教師だったから。
子どもに説明する癖が抜けなかっただけ」
リサは、ふっと笑った。
『数字って、冷たいと思ってた』
「私も、昔はね」
文子は書類を閉じ、引き出しにしまった。
「でも、数字は嘘をつかない。
怖いのは、“知らないこと”なの」
夕方、陽が傾き、部屋の影が長くなる。
『年金までの五年……不安じゃない?』
「計算したわ」
文子は、穏やかに言った。
「最低限の生活をしても、
九百万円は出ていく」
『……それでも?』
「それでも、足りる」
リサは、ゆっくり息を吐いた。
『自由って……』
「派手なことじゃないのよ」
文子は、窓の外を見た。
風に揺れる木の枝。
「眠れること。
急がなくていいこと。
選べること」
夜、リサが帰ったあと、文子は灯りを落とした。
数字は、引き出しの中にある。
でも、不安はそこにはなかった。
「……守られてたのね、私」
三十五年分の時間が、
静かに、今の暮らしを支えている。
文子はそう感じながら、
今日も穏やかな夜を迎えた。
退職金額や年金額を親友に話したら
ねたまれるってユーチューブの動画で騒がれてた
大丈夫かな? わたし
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