第5話:投資で得た自由時間

第5話:投資で得た自由時間


朝の光は、カーテン越しにやわらかく部屋へ滲みこんでいた。

文子は目覚ましをかけない朝に、まだ少しだけ慣れていない。


「……あ、もう八時」


時計を見て、慌てる必要がないことに気づき、ふっと肩の力が抜ける。

急いで着替える理由も、職員室へ向かう足取りも、もうない。


湯を沸かし、茶葉を量る。

ポットから立ちのぼる湯気が、窓の外の冬の空気と溶け合う。


「今日はダージリンにしようかしら」


独り言が、台所に心地よく落ちる。

紅茶を淹れるこの数分間が、以前はどれほど貴重だっただろう。


カップを両手で包み、椅子に腰かける。

温かさが、ゆっくり指先から胸へ広がっていく。


――働かなくてもいい。

それは怠けることとは違う、と文子は思う。


「選べる、ってことなのよね」


昼前、リサから電話が鳴った。


『文子、今日空いてる?』

「空いてるわよ。ずっと」

『じゃあ、駅前の小さな洋食屋、覚えてる?』


文子は微笑んだ。

あの店は、教師時代「給料日明け」にしか行かなかった場所だ。


「いいわ。歩いて行くわ」


店に入ると、バターとデミグラスソースの匂いが鼻をくすぐる。

リサはすでに席にいて、手を振った。


『ねえ、顔が穏やかになった』

「そう?」

『うん。現役のころは、ずっと眉間に力入ってた』


文子は笑った。


「お金の不安がないって、こんなに心が軽いのね」


ナイフがハンバーグにすっと入る。

肉汁が皿に流れ、湯気が立った。


『正直さ、羨ましいわ』

「でも、私は贅沢してないわよ」

『それがすごいのよ』


リサはフォークを置き、少し真面目な顔になった。


『ねえ、年金が出るまでの五年間……計算した?』

「ええ」


文子は静かに頷いた。


「最低ラインの生活保護と同じくらい質素にしても、

……九百万円は飛んでいくの」


『ひえ……』

「でもね、怖くないの」


リサが目を丸くする。


「数字で見えてるから。

どこまで使っていいか、どこから先が危険か」


『それって……安心なの?』

「うん。安心なの」


食後のコーヒーの苦味が、口の中に残る。

その苦ささえ、今日は味わう余裕があった。


午後、文子は陶芸教室へ向かった。

土をこねると、ひんやりした感触が掌に伝わる。


「今日は何を作るんですか?」と先生。

「マグカップを。ゆっくり飲む用の」


ろくろが回り、土が少しずつ形を持つ。

集中すると、時間の感覚が薄れていく。


――急がなくていい。

失敗しても、また明日がある。


夕方、家に戻り、庭に出る。

冬の空気は冷たいが、土の匂いは確かだ。


「今日も一日、何もしなかったみたいで……

でも、ちゃんと生きたわね」


誰に言うでもなく、文子は呟く。


夜、読書灯の下でページをめくる。

文字がすっと頭に入ってくる。


かつては、明日の授業準備や会議のことで、

本の内容が頭に残らなかった。


「時間って、お金で買えたのね」


それは後悔ではなく、静かな実感だった。


働かない自由。

不安に支配されない夜。


文子はカップを置き、深く息を吸った。


「……この五年を、私は好きに生きる」


その声は小さいが、揺れていなかった。


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