第3話:退職金と投資の威力

第3話:退職金と投資の威力


窓辺に置いたティーカップから立ち上る蒸気が、ふわりと文子の頬に触れた。冬の朝の空気は澄んでいて、庭の紅葉が光を透かしながら赤や黄色に揺れている。文子は指でカップの縁をなぞりながら、机の上のノートパソコンを開いた。


「よし……今日は、全部まとめて計算してみましょうか」


自分自身に小さくつぶやき、文子は退職金の明細を画面に映し出す。数字は冷たく整然としていたが、どこか温かさを感じる。長年の積み重ねがここに現れているからだ。


「うん……退職金は、これで……二千五百万円。うん、思ったより少ないけど、これも計画通りね」


文子は隣に置いたメモ帳に、手書きで数字を書き込む。字は几帳面で、数字の列が美しいグラフのように並ぶ。次に、25歳から毎月積み立てたインデックス投資の資産額を計算する。


「積立は、月五万円……38年間か……」


指で電卓のボタンを押すたび、過去の自分の選択が蘇る。若い頃、ほんの少額でも毎月確実に投資に回すことを決意した瞬間の心の高鳴り。月々の支出を少し我慢し、給料から天引きする感覚は、最初は心もとないものだった。それでも、淡々と続けることで今日の安定がある。


「ふふ……これで、投資資産は……三千万円を超えたわね」


画面に現れた数字をじっと見つめる。二つを合算すると、五千五百万円。老後の生活費として充分な額だ。文子の胸は、静かだが確かな喜びで満たされる。


「私、これで安心して旅行も趣味も楽しめるわ」


リビングの椅子に腰かけ、深く息を吸い込む。窓の外で小鳥がさえずり、庭の土の匂いが微かに漂う。ティーカップを口に運ぶと、紅茶の香りとわずかな甘みが口内に広がった。こうした日常の小さな喜びを、心から味わえることが嬉しい。


机の横にはリサから送られたメールが開かれていた。「文子さんの言う通り、少額でも毎月続けるって本当に大事ね。私も少しずつ積み立ててみることにしたの」と書かれている。文子は微笑み、すぐに返信を打つ。


「リサさん、素晴らしいわ。焦らず少しずつでいいの。数字はやがてあなたの味方になるから」


キーボードを打つ指先に、これまでの教師としての経験が自然に重なる。教え子たちに勉強や人生の大切なことを伝えてきたあの時間と、投資を淡々と続けた日々は、同じ形の積み重ねだった。


ノートパソコンの画面に、資産額の推移をグラフ化したチャートが現れる。赤と青の線が長い年月を描いて緩やかに上昇している。文子はそれを眺めながら、思わず指で線をなぞった。まるで自分の人生を辿る指のようだ。


「よくやった、私……」


小さな声で自分を褒める。文字通り、自分の選択と努力が形になった瞬間だ。心が軽くなる。安堵の波が胸に広がり、体全体がゆるやかにリラックスしていく。


窓の外、近所の友人たちの笑い声がかすかに聞こえる。定年後も、地域の趣味の会や散歩、旅行で毎日を楽しむ仲間たち。文子はその輪に加わる自分を思い描く。計画性を大切にしてきた自分の生活は、こうして自由で豊かな時間を手に入れたのだ。


「さあ、次は旅行のプランを立てましょうか……冬の京都もいいし、春の桜も……」


紅茶のカップを置き、文子はカレンダーに指を滑らせる。季節の移ろいと、自分の人生の歩みが重なる。五感で感じる小さな喜び、投資の成果としての安心感、そして未来への期待。すべてが繋がって、胸の奥で温かく光っていた。


再びパソコンの前に座り、文子は退職金と投資資産を合算した表をスクロールする。数字は冷静だが、そこに込められた自分の努力と日々の選択の重みを思うと、まるで光を放っているかのように見える。


「ありがとう、私……そして、未来の私」


小鳥のさえずりが耳に心地よく響き、窓から差し込む柔らかな光が部屋を満たす。文子は軽く伸びをし、ふと庭に目を向ける。冬枯れの枝に残る紅葉が、まるで長年の努力を祝福しているかのように揺れていた。


「さあ、これからは心ゆくまで趣味も旅行も楽しめるわ。自分の時間、自分の人生を大切に……」


ティーカップを手に、文子は微笑む。温かい液体の感触、微かな香り、静かな朝の空気……すべてが、これまでの人生の積み重ねを讃えてくれているようだった。数字の裏に隠れた努力が、確かに自分を守り、未来を明るく照らしている。


文子の心は、ゆったりとした満足感と安心で満たされていた。計画通りに積み重ねた日々が、こんなにも豊かに実を結ぶものなのだ。窓の外の光景をしばらく眺めながら、文子は静かに自分の人生を噛みしめた。


「うん……これで、本当に自由になれる。心から楽しめる時間を、これから思いっきり味わいましょう」


外の小鳥がまたさえずる。ティーカップの底にわずかに残った紅茶の香りを吸い込み、文子はゆっくりと椅子にもたれかかる。数字はただの数字ではなく、努力と時間、そして未来への希望を示す光のようだった。


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