第2話:庭仕事で始まる老後
第2話:庭仕事で始まる老後
文子は玄関先の籠を抱え、にこにこと笑いながら花屋さんから帰ってきた。籠の中には、ビオラ、パンジー、ユリオプスデージー、葉牡丹、そして大好きなストック。どれも色鮮やかで、香りもほんのり漂っている。
「わあ、もう、嬉しくて…にこにこしちゃう」
思わず声に出すと、朝の光に照らされた花たちが、文子の笑顔に答えるように揺れた。もうチャイムに急き立てられることもないのだ。教室の時間割や業務連絡に縛られることもなく、自由に一日を始められる喜びが、胸の奥で広がる。
庭に出ると、まだ土は少し冷たく湿っていた。文子は手袋をはめ、腐葉土と苦土石灰を混ぜる。手のひらに土の冷たさが伝わり、指の間に小石が触れる感触が心地よい。小さな蜂がひっくり返って落ちていたので、そっと手で起こして草の陰に置く。命の重さを感じながらも、文子の心は穏やかだ。
「さあ、今日からは自分の庭が教室。ゆっくり好きにやるのよ」
声に出すと、風が耳元でそよぎ、土の香りが鼻をくすぐる。ビオラの紫と黄色が朝日に映え、パンジーの花びらは柔らかく、触れるとほんのり冷たい。ストックの甘い香りが近くに漂い、文子は深呼吸をした。
花壇の位置を決めながら、文子は思う。25年間教職に捧げてきた時間。子どもたちの声、廊下のざわめき、黒板のチョークの粉、教室の独特の匂い。それらがすべて、今の自分の自由と幸福を支える土台になっている。
「よし、このビオラはこっちの角に、パンジーはここね…」
鉢植えを移動させながら、手触りや重さを確かめる。土をかき混ぜる音、軽く湿った土の感触、花びらの柔らかさ。すべてが、文子の体と心を満たす。
土に穴を掘り、腐葉土と苦土石灰を混ぜた土を入れる。丁寧に花を植え付け、指先で土をそっと押さえる。そのたび、土の香りが鼻に入り、手のひらがひんやりと湿る。思わず笑みがこぼれる。
「こんなにゆっくり、花と向き合える時間があるなんて…贅沢ね」
風が髪をそっとなで、庭の木々が葉を揺らす。小鳥のさえずりが響き、近所の子どもたちの声が遠くで遊ぶ音も聞こえる。外界との距離が程よく、文子は完全に自分の時間に浸れるのだ。
花を植え終えた後、文子は腰を下ろし、庭全体を見渡す。色とりどりの花が並び、土の茶色と緑の葉のコントラストが目に優しい。手に付いた土を払いながら、紅茶の入ったカップを取りに家に戻る。口に運ぶと、ほのかに甘く、温かい紅茶が体をゆっくりと巡り、心まで温めてくれる。
「さて、午後はこの庭で読書ね。鉢植えの成長も楽しめるし」
声に出すと、風が葉を揺らして軽やかに答える。土の香りと花の香り、鳥の声、紅茶の温かさ。五感に触れるすべてが、文子の心を満たす。過去の努力が今、こうして静かに喜びを与えてくれているのだ。
花壇の隅で小さなストックを撫でながら、文子はふと思う。
「毎日、子どもたちに教えるだけが仕事じゃなかったのね。これからは、自分の時間に教えることもできるわ…花にも、土にも、自由な自分にも」
庭に立つと、土の匂い、葉のざらつき、花の香り、風の感触がすべてひとつになって、文子の心に静かで満ち足りた波を生む。にこにこと笑いながら、彼女は一日の始まりを楽しむ。
「うん、これが私の新しい毎日。誰にも急かされず、誰にも縛られず、ただ自分で選んだことをやる…幸せね」
小さな庭仕事から始まる老後の日々。文子の笑顔が、朝の光に優しく溶け込んだ。
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