第1話:教師としての最後の一日
第1話:教師としての最後の一日
朝の校庭は、澄んだ空気に包まれていた。土の匂い、芝生の湿った香り、遠くで聞こえる小鳥のさえずり。文子は校門の前で深呼吸をひとつし、手に持った書類をぎゅっと握った。今日で、60歳としての教師生活は終わる。
「おはようございます、皆さん!」
教室に入ると、元気な声が一斉に返ってくる。子どもたちの瞳が光り、無邪気な笑顔が文子の胸にじんわりと温かさを届ける。
「さあ、皆さん、最後の授業です…でも、笑顔で送り出しましょうね」
文子の声には少しの震えが混じるが、子どもたちはいつも通りの元気で、手を挙げて返事をする。黒板のチョークの粉の香り、木製机のひんやりとした感触、窓から差し込む朝の光。すべてが、文子の記憶の中に鮮やかに刻まれる瞬間だった。
授業が始まる。文子はゆっくりと声を出し、算数の問題を板書する。
「では、皆さん、この計算問題を解いてみましょう」
子どもたちの鉛筆の走る音が教室に響き、紙と木の匂いが混ざり合う。文子は、ふと机の角に刻まれた小さな名前や落書きを指でなぞりながら、この教室で過ごした時間の長さを噛みしめる。
休み時間、子どもたちが窓際で笑い声をあげる。
「先生、退職したら何するんですか?」
「私はね…本を読んだり、庭仕事をしたり、のんびり過ごす予定よ」
子どもたちは驚きながらも興味津々で聞き、文子は自然と笑顔になる。
廊下に出ると、同僚たちがひそひそ声で話しているのが聞こえた。
「文子さん、今日で最後なんですね…」
「ええ、少し寂しいけど、充実した日々だったわ」
肩を軽く叩かれ、温かい握手を交わす。紙のざらりとした感触、握手の重み、同僚たちの温もりが心に残る。
昼休み、職員室では小さな送別会が開かれた。ケーキの甘い香りとコーヒーの苦み、笑い声が入り混じる。文子は静かに目を閉じ、25年間の思い出が次々に浮かぶ。新任の頃、緊張しながら黒板に立った日々。子どもたちの小さな成長を見守った日々。苦しい時もあったけれど、すべてが宝物だと感じる。
午後、最後の授業が終わると、教室に残った子どもたちが一列に並び、文子に向かって手を振った。
「先生、ありがとうございました!」
「また会いに来ます!」
文子は胸がいっぱいになり、涙が頬を伝うのを感じながら、にっこりと微笑む。
「ありがとう、皆さん…これからも、元気でね」
最後の清掃の時間、文子は雑巾で机を拭きながら、木の感触と湿った布の匂いを味わう。教室の匂い、黒板の粉、窓から入る風。すべてが、長い時間の記憶と結びついている。子どもたちの声が遠ざかり、廊下に静けさが戻る。
鍵をかける前に、文子は教室の隅に立ち、深呼吸をする。
「さようなら、私の教室。ありがとう、みんな…」
小さな声でつぶやくと、風がカーテンをそっと揺らした。外の空気は少し冷たく、しかし温かい光に満ちている。文子は微笑みながら、校庭を歩き出した。
門を出ると、校庭の芝生の香りと、遠くで子どもたちが遊ぶ声がまだ耳に届く。文子はゆっくりと歩き、肩の力を抜いた。教師としての最後の日は、少しの寂しさと、満ち足りた充実感に包まれていた。25年間の教職生活が、心の中で穏やかに光っている。
「さあ、新しい一日が始まるわ…これからは、自分の時間を楽しもう」
小さくつぶやく声に、風が答えるように葉を揺らした。文子の悠々自適な老後は、こうして静かに始まったのだった。
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