託されたペン、広がる未来(五)
艶子の病室にあったという長方形の箱の中には、新品のボールペイントペンが入っていた。小泉青年が受け取ったボールペイントペンと同じ商品のようだ。
そしてもう一つ、封筒の中には『小泉くんへ』と描かれている手紙が入っていた。
小泉くんへ
會いに行く約束を果たせさうにないので手紙にします。
これが君に屆くことはないかもしれないけれど、屆いたら考へて欲しいことがあります。
畫家として食べていくのは難しいでせう。
それは決して君の腕が惡ヒといふことではなく、たゞさういふ世ではないのです。
どんなに腕があつても仕事がなければ生涯の糧とはできぬのです。
併し繪筆から萬年筆に變へ、氣まぐれで描いてみました。するとそれは出版社にとても喜ばれました。だうしてだか分かりますか。
技術があるからでせうか。無いも同然の畫家としての名聲でせうか。
いいえ。時間をかけずに描いたからです。忙しい出版業界ではこだわりを捨て指示通りに短時間で描くことが美徳とされたのです。
苛立ちました。こんなに馬鹿にした話があるのかと。
ですがそれ以外に收入が無く、繪以外でできることもない私は唇を噛んででも插繪を描きました。せめてもの抵抗として、畫家久宝艶子ではなく藤夲紗英子として描きました
するとある時、出版社から依頼が來ました。サイン會を開かないかといふのです。
久宝艷子といふ名など誰も見向きはしなかつたけれど、插繪繪師の藤夲紗英子には數えきれないほどのフアンがいたのです。
これを成功といふのでせうか。失敗といふのでせうか。
どちらと云ひ切ることは私にはできないけれど、もし君が成功だと思つたのなら、壹度露店の似顏繪は止めてペンを持つてみてくださひ。
君の漫畫のタツチで描く繪は、物語の登場人物を描く插繪にとても向いてゐると思ゐます。
藤夲紗英子
手紙を持つ小泉青年の手は震えていた。艶子の父親は、ほんのりと微笑んでいる。
「いまでも、出版社へ紗英子宛の手紙が届くそうだ。あの子の油絵は誰にも届かなかったが、挿絵は書籍になり、いまも愛されている」
艶子の父親は、戸棚から一枚の紙を取り出した。鉛筆で、身なりの良い女性が描かれている。小泉青年は目を見開き、のめり込むように見た。
「俺の描いた似顔絵です! 露店で描かせてもらった!」
「病室に飾ってあった。露店は画家を諦めた後でいい、若いうちに定職へ就くのが先だと……何度も言っていたらしい。あれでは、良い腕が潰れてしまうと」
「……見ず知らずの俺に、どうして、そこまで……」
「何度も見かけていたらしい。あの子の日記には、きみのことが何度も出て来るんだ。鉛筆の運びがどうとか、技術が良いようなことが書いてある。私にはわからんけどね」
艶子の父親は、もう一つの封筒を小泉青年に差し出した。妙に分厚い封筒を開くと、中には帳面を破ったような紙の束が入っている。
「艶子の日記の一部だ。持って行ってくれ」
「そんな! いただけません。大切な遺品じゃないですか!」
「これは、紗英子から私に届いたんだよ。遺書になった手紙と一緒に入ってたんだが、小泉くんに会えたら渡してほしいと書いてあった」
親と同等ともいえるほどに想いを遺すなんて、不思議に感じられた。そして、ふとパンフレットの艶子の紹介文を思い出す。
「あ! 若手の育成って、もしかして、小泉さんのことですか?」
「そうだよ。本当に良い腕だと、いくつもいくつも、褒める言葉があった」
「……本当に、いただいていいのですか。俺はまだ、なにも成していないのです」
「私には個展を開くだけの絵を遺してくれた。それは、君の未来に繋げてくれたら嬉しいよ。あの子も、きっとそれを望んでいるだろう」
小泉青年は、艶子の手紙と日記を受け取った。
それから二人はしばらく話し込んだ。割って入るのは無粋だろうと、誠一と薫子は黒田彩菓茶房へと帰ることにした。
「ねえ、マスター。艶子さんて、小泉さんのこと好きだったんじゃないですか? 通りがかりにしては、随分と親切すぎる気がするんです」
「それはわかりませんが、彼の人生が良いものになれば、僕も嬉しいです」
誠一は安心したように微笑んだ。
それから数日後。黒田彩菓茶房にも、ちょっとした変化があった。常連客が、壁に群がり見上げているのは、一枚の絵だ。
「あら! 素敵な絵じゃない! ハイカラだわ~!」
「ほー。誠一にしちゃ良い趣味だ、と言いたいとこだが、お前さんじゃないよな」
にやにやと笑い誠一を突くのは寅助だ。さすが、よくわかっている。
「ええ。小泉さんに、お任せで描いてもらったんです。この店に合う絵をって」
「気に入って頂けてよかったです」
黒田彩菓茶房に、小泉青年がボールペイントペンで描いた絵を飾ることになった。
小泉青年は、艶子が示したとおり、まずは定職に就くことを目指すらしい。
絵に繋がる仕事だとなお良いと考えたそうで、出版業界の職を探しつつ、書籍の表紙や挿絵絵師の営業もしていくそうだ。
艶子の父親も協力してくれたらしい。藤夲紗英子が絵を提供していた出版社へ紹介し、既に仕事をもらえたということだ。それも、艶子が生前に『小泉くんが来たら、可能な範囲で取り立ててやってほしい』と、言付けをしていたらしい。
情けないとも思ったらしいが、身の程を知り、甘えさせてもらう――と言っていた。
小泉青年の話を聞いて、誠一も絵を描いてくれと依頼した。まずは縁を活かすことを覚えてほしい、ということだった。
常連客は楽しそうに絵を囲んでいるが、一番身を乗り出しているのは寅助だ。
「そうかそうか。あんた、こんなに立派な絵を描く絵描きさんだったんか」
「まだ半人前です。ボールペイントペンは、鉛筆とも筆とも勝手が違って難しい」
「最先端を取り入れる柔軟性が立派だよ。新しい物を取り入れるってのは、積み重ねたものを手放すようで辛い。時代を牽引するのは、あんたみたいな子だろうな」
「……そうですね。そう、教えていただきました。だから描けたんです」
寅助は両腕を組んで大きく頷き、お、と叫んで小泉青年の腕を掴む。
「なあ! うちにも一枚描いてくれんか! ボールペイントペンを売ろうかと思ってるんだが、どんなもんか、わからんだろう? けど、こんな絵も描けるってわかれば、きっと売れるぞ!」
「本当ですか。俺でよければ、ぜひ描かせてください。題材はなにが良いでしょう」
「そりゃあれだ! 誠一! 新作あるんだろ!」
「もちろん。小泉さんの物語は、とても素晴らしいものでしたから」
寅助は目を輝かせた。お客さまの謎解きを終えたら、その物語をお菓子にするのが黒田彩菓茶房の新作だ。
誠一は、キッチンからケーキの乗った大皿を持って戻ってきた。
それは、両手で抱えるほど大きな長方形のケーキだ。縁はチョコレートの生クリームで作った額縁になっている。
額縁の中は、苺を使った桃色のクリームと、苺を使って描いた桜の景色。風景を細いチョコレートペンでなぞることで、ボールペイントペンで描いた線画を表現している。
上部には、艶子の物語である、果物の皮で作った虹が掛かっていた。
「凄い! ボールペイントペンの絵、そのものだ!」
「製作時間がかかるので特注だけですが、簡易版としてクッキーも作りました」
誠一は、掌ほどの大きさがある長方形のクッキーを取り出した。表面には、チョコレートペンで描いたボールペイントペンを模した線画が描かれている。
小泉青年は相当感動したようで、食い入るようにクッキーへ魅入った。
「凄い! 本当に凄いですよ! マスターこそ、真の芸術家だ!」
眩い小泉青年の笑顔に、薫子もつられて笑顔になる。
「そうですね。私も、マスターのお菓子は芸術品だと思います」
「大袈裟ですよ。僕は好きに作ってるだけです」
「おいおい。卑下しちゃいけねえよ。客はな、みんなお前の彩菓を見たくて来るんだ。小泉くん、これを描いてくれよ」
「わかりました。この美しさに負けないよう、頑張らないと」
小泉青年は、ボールペイントペンを強く握った。誠一も頷き、なぜかショーケースへ向かう。ケーキを大皿にいくつも乗せ、まるでパーティでも始めそうな勢いだ。
「マスター? どうしたんですか。そんなに注文入ってませんよ」
「はい。いま、僕が入れました」
「……ええと、それはつまり……」
誠一は、にっこり微笑むと声を張り上げた。
「さあ! 今日は小泉くんのお祝いなので、ケーキを無料で出しちゃいますよ! 他のみなさんもどうぞ!」
「え!? 本当に!?」
「やったー! 私ショートケーキ!」
来店していた客は、わあっと一斉に集まった。
誠一はどうぞどうぞと振る舞っているが、売れ残りや、賞味期限切れによる廃棄が予想される商品ではない。すべて人気商品で、確実に注文の入るケーキたちだ。
「ま、そうなりますよね」
これを実家の父親がすれば、怒鳴るだろう。けれど、ここは黒田彩菓茶房だ。
物語の主人公が笑顔になったのに、赤字なんて野暮なことは言えない。
小泉青年も誠一も、客も、みんながケーキに負けない美しい笑顔になっていく。これこそが、黒田彩菓茶房の物語だ。
せめて赤字を悪化させないよう、薫子は『本日閉店』の札を下げて扉を閉めた。
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