託されたペン、広がる未来(四)
誠一は、小泉青年の問いには答えず歩き続ける。
次の部屋は、がらりと雰囲気が変わった。並んでいるのは油絵ではなく、細いペン筋で描かれた白黒の絵だ。
急な変貌に薫子は首を傾げたけれど、小泉青年は目を丸くして絵に張り付いた。
「これはまさか、ボールペイントペンで描かれたものですか!?」
「あ、本当だ。インクですねこれ」
油絵も緻密だったけれど、ボールペイントペンは、絵筆とはまた違う緻密さだ。誠一の作る果物の皮の虹のように、幾重にも重なる線はボールペイントペンならではだろう。
「……けど、全然違う人の作品みたいですね。画風って、ぱっと変わるんですか?」
「変えようとしなければ、変わりません。練習をしても、こんな美しくは、とても」
「ですよね。画風の変更って、経験を捨ててまでやる価値あるんですか? それとも、油絵に飽きたのかしら」
「飽きではなく、挑戦でしょう。これだけの実力をお持ちなら、いろいろ試したいと思われたはず。新時代へ向かうことを旧時代への飽きというのなら、そうかもしれませんが」
「けど、飽きない限り、新しいこと没頭はしないと思うんですけど」
「没頭したわけでは、ないでしょうね。ボールペイントペンには絵具が付いていた。ペン画も油絵も、どちらも並行していやっていたんですよ」
「まったく違うことをですか? そんなことできるんですか、小泉さん」
「俺は考えられません。道具揃えるのも大変だし、今までの技術が新しい画風に振り回されて、めちゃくちゃになったりもする」
「でも、露店では漫画のようなものを描くんですよね」
「売れますからね。嫌でも、画材分は稼がないと」
「それです!」
「え?」
誠一は、急に大きな声で小泉青年に顔を近付けた。
「絵で食べていける人は、ごく一部です。美術館に並び、売り上げに繋がる画家は一時代に数名いるかどうか。個展だって簡単じゃないし、美術専門の学校へ入ること自体が難しい。露店の似顔絵描きで終わる人のほうが、多いでしょうね」
びくりと、小泉青年の震える姿が見えた。小泉青年の顔は青ざめている。
誠一は順路を振り返り、油絵に目をやった。わずかに進んだだけなのに、どんな絵があったかは、もう思い出せない。代表作だという『四季折々』とやらも、どれだったのか。
記憶に残る絵はなかった。うまいのだろうとは思う。だが、欲しいとは思わない。
「……俺もそうなると?」
「僕に絵心はないので、きみの将来性はわかりません。でも、彼女はきみに自分を重ねたんじゃないでしょうか。若くて才能もある。でもきっと、埋もれ朽ちていくだろうと」
「だから絵は諦めろと!?」
「その想いの答えは、この先にあるでしょう」
誠一は背を向け、あっさりと順路を進んだ。
絵の展示はここで終わりで、現れたのは売店だった。画家に類するなにかがあると予想されたが、並んでいるのは、絵葉書と幾つかの書籍だけだった。高級な物は隠してるのかもしれないが、聞こうにも店員はいない。
これじゃあ説明を求めることもできないし、買うこともできやしない。
会計台に小さな銀色のベルと、横に「御用の際は鳴らして下さい」と札が立っている。けれど、ベルは一度も触れたことが無いかのように輝いている。
まるでなににも興味のなさそうな空間に、薫子は首を傾げた。
「艶子さんの物販、なんですよね。なんか、妙な感じだわ」
「妙ですか。それはどうして?」
「だって、活動は多岐に渡ってましたよね。なら、商品もたくさんありそうじゃないですか。装飾品を並べれば華やかです。経歴の紹介にもなるじゃないですか」
「それは色々事情があるでしょうね。一旦絵に関する活動に絞って考えましょう。これを見てください。小説の挿絵です」
誠一は書籍を一冊手に取った。ぱらぱら捲ると、合間に絵の描いてある頁もある。そのすべてが、順路内で見た絵だった。油絵は憶えていないけれど、印象にある。
「艶子さんは、死を目前にして方向転換をしたんです。お金にならない絵画ではなく、確実に原稿料を貰えるボールペイントペンの挿絵に」
書籍を棚に戻すと、今度は絵葉書を手に取った。それもボールペイントペンの細い線だったけれど、他にも、水彩絵の具や色鉛筆などで描かれている。
「挿絵や絵葉書は、艶子さんの思う『絵』とは違ったのかもしれません。でも、これも芸術の一つであると気付いたのは、死が見えてからだったんでしょうね」
誠一は、展示されている芸術雑誌を手に取った。販売はない展示だけのようで、棚に紐で括り付けられている。
薫子も覗き込むと、書いてあるのは『久宝艶子の生涯』というコラムだ。
「艶子さんは、二十歳でご家族と離縁しています。画家になることを認めてもらえず、家を飛び出したんです。けれど絵は売れず、露店の似顔絵を続けました。それでも生活はできず、家政婦の仕事をし始めます。収入は画材に消え、でも売れない。生活は厳しくなり、ついに倒れ、一人病院で息を引き取られたそうです」
え、と小泉青年は息を呑んだ。薫子も、大きな違和感を覚えて手を挙げた。
「パンフレットの紹介と全然違いません? まったくの別人のように感じますよ」
「それは一先ず置いておきましょう。いま大事なのは、艶子さんは画家として大成せず、生活すらままならなかったということです」
「でも、身なりは良かったです! お金に困ってるようには見えませんでしたよ!」
「おそらく支援者がいたのでしょう。でなければ、若い女性一人で画家なんて、やっていけませんよ。小泉さんの生活はいかがですか?」
誠一の問いに、小泉青年はぐっと黙った。
小泉青年は着古した着物を着ている。長く履いていたであろう草履はぼろぼろだ。
「ボールペイントペンに込められた希望は、小泉さんの将来です。ボールペイントペンの作品も美しかったでしょう?」
薫子には絵の良し悪しはわからない。ただ、油絵は記憶に残らず、ボールペイントペンの絵はおもしろいと感じられる。もっと早くに転向するべきだっただろう。
けれど小泉青年は、艶子の油絵を美しいと言った。
「……俺の腕程度なら、画家は諦めろということですか」
「そういうことではありません。画家に限らず、芸術や芸能の収入は不安定です。安定した仕事の副業として続け、いずれ花開くことを目指すほうが現実的だと思います。それでも絵にこだわるのなら、固定収入になる絵も描いたほうが良い」
小泉青年は、絵具のこびりついたボールペイントペンを見つめた。
人にあげるにしては汚すぎる。けれど、死ぬまでその汚さの中で生きるしかなかったことは、よくわかった。
誠一は、物販に並ぶ絵葉書を一枚手に取り、小泉青年へ差し出した。
ボールペイントペンで描かれた細い線に、水彩で淡く色が付いている。油絵とはまったく違い、あっさりとした作品だ。けれど、薫子は買ってもいいと思えた。
「決めるのは、きみ自身です」
「俺は……」
小泉青年は艶子の絵葉書を見つめていた。
いままで、小泉青年がなにをして生きてきたかは知らない。この個展と誠一の話で、なにか変わったのだろうか。
そんなことが気になったとき、ことん、と奥の扉が静かに開いた。
ひょこりと顔と出したのは、壮齢の男性だ。
「なにかありましたか」
「ああ、すみません。とても素敵な絵で、議論に熱が入ってしまいました。ご主人は、この個展のかたですか? もしや、久宝艶子先生のご親族でしょうか」
「先生、ですか。先生かどうかはわからんですが、久宝艶子の父です」
「そうでしたか。実は、彼が画家を志しているんです。ご家族の目から、なにかご助言をいただけませんか」
「……私はなにも言えませんね。背は押せない」
「艶子さんの活動には、否定的だったそうですね。十八歳で認められるというのは、凄いことでしょう」
「あれは社交辞令です。私は建築をやっとるんですが、たまたま、著名なかたの社交界に呼んで頂けたことがありました。そのかたが、気まぐれにあの子の絵を取り上げ、大勢の前で褒めてくださった。気まぐれです。それをあの子は真に受けた。愚かな娘です」
艶子さんを愚弄され許せなかったのか、小泉青年は今にも怒鳴りつけそうな形相になった。けれど、誠一が落ち着けというように肩を抱く。
「冊子にあった艶子さんの紹介は、あなたがお書きになられたのではないですか?」
「そうです。あれは、うかつにも『四季折々』を褒めてしまったかたが、詫びにと回してくださってた仕事です。風雅とかいう劇団を持ってて、そこの看板やらなんやらを描かせて。画材だの服だの生活援助までしてくださった。その一、二件を膨らませて書きました。嘘ではないですが本当でもない。でも今更です。今更……」
怒りに満ちた小泉青年の形相を見て、艶子の父は俯きぐにゃりと背を丸くした。
「……戻って家で描けと、言ってやれば良かった」
艶子の父親の声は揺れていた。顔は見えないけれど、きっと涙を堪えているであろう。隠れている顔の前に、小泉青年はボールペイントペンを差し出した。
「生前、艶子さんから預かりました」
「これは……ボールペイントペン? 紗英子からですか?」
「はい。俺の似顔絵露店に来てくださって、その時に頂きました。また来ると言ってくださったんです。でも形見なら」
「まさか、あんた小泉くんか!」
突如、艶子の父親は立ち上がった。勢いよく小泉青年の腕を掴み、震えている。小泉青年も驚き、身を引いてしまっていた。
「……小泉です。なぜ俺の名をご存じなんですか?」
「そうか、そうか! ああ、ああ、待ってくれ、ちょっと待っててくれ!」
艶子の父親は、血相を変えて奥の部屋へと駆け込んだ。大きな荷物を動かすような音が聞こえ、心配になったころに戻って来た。持っているのは、片手で握れる長方形の箱と、真っ白な封筒だった。艶子の父親は、封筒を小泉青年へ差し出す。
「紗英子の病室にあった物だ。見てやってくれ」
「病室なら、遺品か、大事な物なのではないですか? 俺のような他人が見ては……」
「いいや。これはきみに見て欲しい。きみに見てもらうために、あの子は書いたんだ」
小泉青年は首を傾げた。薫子も不審に感じられたけれど、艶子の父の気迫に負けたのか、受け取って開けた。
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