託されたペン、広がる未来(三)

 黒田彩菓茶房を出てすぐの大通り。路面電車の通過を待つ時間がもどかしい。

 大通りを渡って十分ほど歩くと、建物は減り、彩鮮やかな花壇が見えてきた。豊かな緑も美しく、親子連れが散歩をしている。近隣の人々が集まる緑地地区だ。

 これも通り抜けると、小さな建物がまばらに建っている。個人商店が多いけれど、一般向けというよりは、老後の生活を楽しんでいる趣味の店、といったところだ。

 いくつかを通り過ぎると、誠一は二階建ての小さな洋館の前で足を止める。


「さあ、到着しましたよ。ここです」

「ここって……」


 洋館は家というには、あまりにも独特なデザインだった。荘厳な彫刻の刻まれた壁自体が芸術品のようで、美しくはある。

 しかし、あまりにも個性的だ。薫子は思わず眉をひそめた。


「マスター。ここ、なんですか? まさか、マスターの別荘じゃないですよね」

「違いますよ。個人の画廊で、女性画家の個展が開かれてるんですよ」

「個展⁉ 女性画家って、もしかして!」


 小泉青年は、建物の入り口に置いてある看板を振り返った。看板には《久宝くぼう艶子つやこ展》と書いてある。


「久宝艶子さんは、ここらのお生まれなんです。向日葵の終わった頃から、ずっとこの個展をやっているんです」

「向日葵……小泉さんがボールペイントペンをもらったより、あとですね」

「ええ。入ってみましょう。きっと、小泉さんに必要なものがあります」

「俺に?」


 不思議そうな顔の小泉青年をよそに、誠一はパンフレットを取り会場へ入った。

 入ってすぐに姿を見せたのは大きなアーチだ。外壁と同じように、彫刻がされている。本物の蔦が絡まっているかのように、繊細な植物を再現したアーチだった。とても見事で、画家というよりも、建築家の個展のように思えてしまう。

 アーチを潜ると、柔らかな照明の中に絵画は展示されていた。すべて油絵で、描かれている物は人物や植物など様々だった。

 それにしても、入館者はいない。入場無料でも客の入りは悪いようだ。


「マスター。この人、無名ですか? 地元の画家なら、多少は身に来そうなのに」

「僕は芸術に疎くて。でも、描いた本人と会ったことがあるんです。見てください」


 誠一は、順路の突き当りにある絵を指差した。描かれているのは、ケーキだった。果物が宝石のように輝き、繊細な細工がされている。色鮮やかで、特に目がいったのは生クリームに掛かる虹だった。

 林檎や蜜柑、多数の果物の皮で作る虹――マスターの得意技だ。


「このケーキ……」

「僕の作ったケーキです。この虹は艶子さんの物語から生まれた物なんです」

「うちのお客様だったんですね! そうだったんだ」

「ええ。さあ、次へ行きましょう」


 誠一は順路を進んだ。先には、まだケーキやお菓子の絵が並んでいる。進みながら何枚か見て行ったけれど、ついにお菓子の絵は終わりになってしまった。


「あれが、作らせて頂いた最後のケーキです」


 指差した絵には、やはりケーキが描かれている。檸檬や蜜柑、冬が旬の柑橘類を使ったケーキだった。半月のような檸檬の周りに添えられた、キウイの緑色も美しい。


「これは限定十食しか作れなかったケーキです。購入したのは、男女の二名で一個と、親子三人で二個、男性一人で一個。柏木さんご一家が三個と遠藤さんご夫妻二個、それと女性一名が一個。この女性が、藤夲紗英子さんというかたでした」


 誠一の商売感覚はおかしいが、お客さまに関することは、すべて覚えている。それも、調べるでもなく当然のように憶えているから凄い。

 小泉青年も呆気にとられて、目をぱちくりさせている。けれど、誠一は気にせず先へ歩いた。


「久宝艶子の本名は藤夲紗英子。そして、この画廊の経営者が」


 誠一はパンフレットを広げて、奥付をつんと指差した。奥付には『開催者 藤夲幸之助』と書いてある。


「あ、ご家族! じゃあ、この人に頼めば会えるんじゃないですか、小泉さん!」

「ええ! 今日は、ここにいらっしゃるんでしょうか」


 小泉青年は嬉しそうに意気込んだ。けれど誠一は、少しだけ俯いた。


「艶子さんは、向日葵が散ってすぐの頃に亡くなりました。この個展は追悼です」

「……え?」


 誠一はパンフレットの最初のページを開いた。そこには、久宝艶子の経歴がびっしりと書いてある。


「久宝艶子。本名、藤夲紗英子。華族藤夲家の末子長女として生まれる」


 誠一はゆっくりと久宝艶子の歴史を読み上げ始めた。


久宝艶子。

本名、藤夲紗英子。華族藤夲家の末子で長女として生まれる。

わずか十八歳にして油絵「四季折々」が大きな評価を受け、彼女の時代で最も才能あふれる有望な若手画家として注目を集めた。

「四季折々」は四季の風物詩を緻密に描いており、細やかでありながら大胆なタッチで描かれた色彩豊かな風景画。多彩な色が支え合う様子が地球の奇跡を感じさせ、観る者は異なる世界を見ているようでもあり懐かしくもあると語った。

引く手数多となり二十歳のうちに一人立ちをし、風景画や静物画、人物画まで幅広く描くが、中でも写実的な肖像画は高く評価されている。しかし街に息づく作品作りを追い求めたため、特定の個人を描く人物画の数は少ない。

彼女の才能は美術界のみならず建築家やデザイナーの目に留まり、その斬新な創造力を認められ多くの建築計画にも参加した。とりわけ装飾のデザインは異彩を放ち、海外からも多く声がかかった。商品化されると即時に完売し、出す度に多くの購入希望が殺到していた。

それ以降も多くの作品を美術館や多数の施設へ提供し世を賑わわせたが、三十代になると若い画家を集めたサロンを開くようになる。

持ち前の幅広い技術と縁を生かして若者の指導を積極的に行い、次世代を担う芸術家を発掘し活躍の場を提供していた。 

しかしその成功も束の間、肺を患い四十五歳の若さで他界。

彼女の死を悼む多くの人々が生前に手がけた作品を持ちより、この度の回顧展開催に至る。

今なお求め続けられる久宝艶子が生涯をかけて作り続けた作品の全てをお楽しみください。


 小泉青年は経歴の素晴らしさに驚いたのか、口を開けてぽかんとしている。

 薫子も驚いたけれど、違和感を覚えて首を傾げた。


「これ、本当に艶子さんの経歴ですか? 具体的な作品名とか、油絵画家としての実績がほとんど書いてないですよ。小泉さん、画家ってこうなんですか?」

「いいえ。個展をするなら、作品には名を付けるはずです。これじゃあ、どんな技術が認められたのかもわからない。本当に油絵画家だったのかすら――」


 なにかに気付いたように、小泉青年は息をのんだ。俯き、握っていたボールペイントペンをじっと見つめている。


「そのボールペイントペンは希望だったんでしょう」

「久宝艶子の画家人生の、ですか? では僕が持っていてはいけない」

「……この紹介文は、有名人のように書いてありますね。でも、僕は知りませんでした。小泉さんは知っていましたか?」

「いいえ。でも素晴らしい絵です。筆遣いがとても繊細だ」

「でも無名だった」


 誠一は冷たく言い捨てた。

 薫子は絵に詳しくはないし、観賞する趣味もない。けれど、画家を志す小泉青年すら知らないのなら、画家として成功していたとは言い難い。

 ようするに、この個展は『絵のうまい素人』程度の人物の絵ということだ。

 誠一は、ボールペイントペンを見つめて、申し訳なさそうに微笑んだ。


「艶子さんと、他にもなにか話をしたんじゃないですか? 例えば、あなたの身の上。ご家族に絵を辞めろと言われている――とか」

「……なんでもわかるんですね。ええ。そんなことを、少しだけ話しました」


 誠一はなにも答えなかった。ただ優しくにこりと微笑んで、脚を順路の先へ向けた。


「進みましょう」

「は、はあ……」

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