第2話
教職員組合の事務所は、昼下がりの二時を回ったところで、いつも通りに澱んでいた。
事務局長の村田は、その殺風景な空間で、手元のタブレットをスリープモードにした。画面の光が消え、煮えたぎるような罵詈雑言といったノイズが、黒い画面の奥へと吸い込まれていく。
「……きついねえ」
村田は独りごちて、首をポキリと鳴らした。
彼にとって、画面の向こう側の祭りは「対岸の火事」に過ぎない。ここはエアコンの効いた、安全な事務室だ。彼にあるのは義憤ではなく、これから来る「面倒な案件」を処理しなければならないという、サラリーマン的な憂鬱だけだった。
ドアベルが鳴り、一人の男が姿を見せる。
緑台中学教諭、葛城。四十六歳。
動画の中にいた「モンスター」ではなく、ただのひどく疲れた、生気のない中年男だった。七月の蒸し暑さだというのに上着を着込み、ネクタイを緩みなく締めている。
「……あ、あの。お電話いただいた、葛城です」
村田は努めて「役所の窓口」のような、平坦なトーンを作った。
彼にとって葛城は、憐れむべき対象ではあるが、友人ではない。十五年間組合費を払ってきた「顧客」だ。
「お待ちしていました。どうぞ」
村田はパイプ椅子を勧め、単刀直入に切り出した。
「ネットや報道では『懲戒免職だ』と騒がれています。委員会も世論に押されてその方向で動くでしょう。ですが、我々の仕事はそれを阻止することです」
「……阻止、できるんですか?」
「法的な『犯罪』かどうかの判断は、警察と検察が終わらせました。ですが、我々がこれから戦うのは『懲戒審査』です」
村田はテーブルに書類を広げ、その一点を強く叩いた。
「いいですか先生。これは裁判ではありません。あなたの『身分』と『退職金』を守るための、教育委員会との労使交渉の場です。警察でどう扱われたかは関係ない。ここで『クビにするほど悪質ではない』と認めさせれば、停職で済み、退職金も守れます」
葛城の顔に、わずかな縋るような光が宿る。
「事実確認を。……動画の行為は、間違いありませんか?」
「はい。……魔が差したんです。期末処理で連日泊まり込みで、思考力がなくなっていて……誰も見ていないと思って、気づいたら手が動いていた」
葛城は膝の上で拳を握りしめる。
「ですが、私はKに金を払いました。彼が『示談金を払えば動画は消すし、警察沙汰にはしない』と言ったからです。夜中のうちに、近くのコンビニATMまで連れて行かれました。限度額いっぱいまで引き出させられ、足りない分はネットバンキングでその場で送金させられました。警察で罪を認めたのも、示談が成立しているから穏便に済むと思ったからです」
「ですが、彼は約束を破った」
「……はい。『金はもらうが、正義のために動画は出すし通報もする』と。騙されました」
村田はため息をつかずに、事務的に頷いた。
「なるほど。つまり、警察で罪を認めたのは、『示談による早期解決を信じていたから』ですね? ……だとしても、50万円の支払いは致命的だ。委員会はこれを『窃盗の自白』と見なして攻めてくる」
「……やはり、もう無理なのでは」
「いいえ。ロジックを変えるんです」
村田は低い声で言った。
「警察であなたが金を払ったのは、罪を認めたからではない。『YouTuberによる、社会的な抹殺をチラつかせた恐喝』に屈して、パニック状態で支払わされたものだ。……こう主張します」
「恐喝……ですか?」
「ええ。相手は動画を撮り、『金を払えば消してやる』と持ちかけた。これは実質的な恐喝です。あなたは極度の疲労と恐怖の中で、身を守るために金を出すしかなかった。つまり、あの50万円は『示談金』ではなく、『不当に要求された口止め料』であり、あなたは窃盗犯ではなく『恐喝の被害者』なんです」
葛城が目を見開く。あまりにも図太い論理のすり替えだった。
「そんな無茶苦茶な……」
「無茶苦茶でいいんです。重要なのは、『金を払った=盗みの自白』という図式を破壊することです。『被害者だったから金を払った』という理屈が立てば、警察での調書を無効化できる」
村田はニヤリと笑った。
「彼らがあなたをクビにしたい本当の理由は、『ネットで炎上したから』です。だからこそ、我々はこう主張してカウンターを撃つ。『炎上の原因はYouTuberの悪質な罠と恐喝にあり、葛城先生はその被害者だ。被害者をクビにするのか?』とね」
村田は書類を叩いた。
「この『被害者』という立場を補強するために、あの瞬間の行動を『保護』と言い換えるんです。『恐喝被害者が、善意で財布を保護しようとして巻き込まれた悲劇』。……このシナリオで、委員会を黙らせます」
その時、村田の手元のタブレットに速報通知が入った。
> 【速報】動画投稿者「ジャスティスK」、アカウント停止処分(BAN)。
「……先生。状況が動きました。元凶のアカウントが消えました」
葛城の顔に、血の気が戻る。「これなら、戦えるかもしれません……」
「ええ。これで『悪質なYouTuber』という敵役の印象は決定づけられた。我々のシナリオには追い風です」
村田は画面をスクロールした。しかし、そこには予想外の光景が広がっていた。
Kの動画が消えた空白を埋めるように、無数の模倣犯の動画が上がり始めていたのだ。
> [ NewTube ]「正直さテスト」検索結果
> 【検証】ジャスティスKの意思を継ぐ! 財布放置してみた
> 【模倣犯】第二のKは俺だ! 正義の鉄槌・改
村田は眉をひそめた。Kというウイルスは死んだが、感染は拡大している。
「……ただし、時間との勝負です。この『模倣犯』たちが世間に定着して、新たな火種になる前に、明日の聴聞会で決着をつけなければならない。……さあ、サインを」
葛城は震える手でペンを握った。
それは、悪魔的な詭弁への同意書だった。だが、今の彼にはその蜘蛛の糸しか見えていなかった。
【作者より】
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