Average Sunday
@otogi_1989
プロローグ
ニューヨークの冬は寒い。
手袋をつけていても指先は悴んでいた。鞄の中でポケベルに触れていた手を離す動作が、少しだけぎこちなく感じる。平日よりも明らかに人の少ないオフィス街のビルの間を、冷たい風が走り抜けていく。
今日は大晦日だ。1988年、ディセンバー31。
ほとんどの企業はもう閉まっていて、きっと勤めている人たちは、誰かと新年を迎える準備に励んでいることだろう。友人か家族か恋人か、なんだっていい。どうせもう縁のない話だ。
年内にどうしても滑りこませたい仕事があるのか、まだ開いているオフィスもある。たいていは法律事務所、金融やら印刷関係だ。お互いご苦労様、と内心思い、それでも暖かいオフィスと家があるならまだマシじゃないか、とすぐに考え直した。
だが、交通量もクラクションも少なく、いつもの車でごった返している交差点が一発で抜けられるのは、ほんの少しだけ爽快だった。
指定されたオフィスに行き、鞄にいれた封筒を取りだす。受付の男性はもうすでにコートを着ており、帰りかけなのは明らかだった。雑にサインを書きながら、彼はうんざりしたように首を力なく振りながら言う。
「年末なのに悪いな」
その言葉に、表情を変えずに「なんだ、弾んでくれるのか」と返した。指先は、もうすでにポケットの中の自転車のカギを捕まえている。
肩をすくめた受付の返事は返ってこないものとして、すぐに建物を出た。とたんに刺すような冷たさが肌をさし、身震いをする。つい先ほどまで握っていた自転車のハンドルはもうすっかり氷のようで、薄い手袋は意味をなさなかった。
年越しが近づいてくる夜にかけて、タクシーの量が少しづつ増えていくのだろう。まだ随分と空いているが。
そう思ったそばから、ひゅっとすぐそばをタクシーが通り過ぎる。少し鞄がかすったかもしれない。げ、と思わず声が出て、左側の足を地面についた。
重い鞄を体に引き寄せる。道の端で車を警戒しながら鞄をあけ、中のものを確認する。書類はさっき届けたのでもう入っていない。それでも尚かなりの重さがあるのは、重厚なつくりのフィルムカメラが入っているからだった。
レンズも本体も無事なことを確かめ、ほっと吐いた息は白かった。切り裂くような冷たい風が頬をかすめて、ドレッドロックの髪が視界に躍り出る。軽く頭をふって今年最後の土曜の空を見上げると、どんよりと灰色の空が見えた。もうすぐ雪がふりそうだ。
夕方になり、ポケベルは一切鳴らなくなった。一気にあたりは暗くなり、オフィスの灯りもない。代わりに、ネオンがやたら目につくようになっていった。湿った空気と排気ガスの匂いが残る。
日は随分短く、もう影は長く伸びている。バーの前にはタバコの煙をくゆらせている若者と、コートの下に派手な服を着たアーティストらしき人集り。アパートの窓からは聞き取れないラジオや音楽が混じり合っている。少しの非日常の間に、すりガラスに反射したネオンライトが視界の中で主張を強めてきた。
良さげな路地を見つけると、バーの搬入口のそばに自転車を立てかけ、適当な配管にチェーンをかけておく。少しの間なら大丈夫だろう、と思いつつも、通りに出る前に周囲を確認するのも忘れない。まあ、ホイールくらいなら盗られたって仕方がないが。
早足で歩きながら、ずっと使っているフィルムカメラを取り出す。塗装が角から剥げているしファインダーには小さなゴミが入っているが、ピントは十分正確だ。
冷えた空気の中、ファインダーを覗き込むと、すっと音が遠くなった。
冷たい金属と、素材が指に張り付く感覚。だが乾いたシャッター音が重なる度に、自転車のところに戻るタイミングを探していた。
数回シャッターを切ると、後ろ髪を引かれながらも、ファインダーから視線を上げる。
早くも酔いが回っているカップルの間を走り抜け、自転車を置いた路地に戻った。チェーンを壊された形跡もなく、ホイールも無事だった。胸を撫で下ろす。
それを数回繰り返し、すっかり夜も更けてきた頃。タイムズスクエアに近づくにつれ、急激に人の密度が上がってゆく。笑い声と怒鳴り声の入り交じった喧騒が脳を殴ってくるようだった。
完全なイベント空間となっているそこは、自転車で走るにはあまりにも不向きな空間だ。少しだけ外れた路地にまた自転車を置き、今度は2重のロックをかける。警官の数は異常に多いが、それで間に合うわけもない。数枚だけ撮ってすぐに帰ろう、と決めた。
観光客の渦にもみくちゃにされそうになりながら、良さげな裏路地を探す。人混みから逃れたいあまりにきちんと見定めもせず飛び込み、息を整えながらメインストリートに目をやった。
壁にネオンが反射し、光源は見えないものの路地は薄ら明るい。地面は雪なのか酒なのか吐瀉物なのかわからないもので湿っていて、光を鈍く反射していた。そしてビルの隙間からは、狙い通り電光掲示板の異常な明るさが顔をのぞかせていた。まるで路地自体が無骨なフレームのようだ。
ファインダーを覗き込み、露出をネオンに合わせる。路地のレンガは黒く、歪んだネオンの線は、そこにあるはずの文字を完全に潰す。色だけが動いて、だがその色さえも彼には白と黒に見えている。
シャッターを半分押した状態の指の感覚が脳に焼き付いた。足元の冷たさはもう感じない。呼吸が自然と止まり、目が乾くことも忘れている。
これはいい絵が撮れるぞ、と思わず口角が歪んだ。
だがその瞬間。笑い声がふいに近く響き、黒い影が伸びた。はっとして顔を上げた動きの衝撃でシャッターが切れ、その音が変に大きく響く。
視界が大きく揺れた。強い衝撃に体がぐらりと傾き、ちかちかと点滅している視界で、地面が近づいてくる。咄嗟にカメラを胸に引き寄せ、その直後、地面に打ち付けられる大きな打撃に意識が硬直した。
ピアスが耳に当たって痛い。冷たいコンクリートの粒の一つ一つが刺すようだった。感覚から滑り込んでくる情報の多さに動けない。拳だったのか金属だったのか、この際もう関係ない。
「う、……くそっ、」
複数の足音。呼吸音も明らかに2つ以上。面倒ごとにはしたくないし、人を殴るのも蹴るのも嫌いだ。立たないほうがいいのは明確だった。
蹴られているのか続く衝撃と、一人の手がポケットを弄る感覚。財布に入っている金はどうせわずかだ。取らせておけばいい。あと興味を失くすまでじっとしておく。大丈夫、少しずつ思考が動いてきた。
地面に伏せながら、バレないように目を一瞬開く。路地の隙間に見える電光掲示板の数字が、ちょうど切り替わろうとしているところだった。
1989年が始まろうとしている。タイムズスクエアのカウントダウンの声は歪んでいたが、それでも聞こえてくる。
あぁ、痛い。まったく、散々な年越しだ。スリー、ツー、ワン。ハッピーニューイヤー、そして誕生日おめでとう、俺。
冷たい地面に、どこから流れているのかもわからない血。タイムズスクエアでは人々が抱き合い、キスを交わし、新年を祝っているというのに。どこがハッピーニューイヤーだ。これではなんの変哲もない、至って平均的な日曜日ではないか。
:
なんのお店か分からないけれど、暗く光のない店内は、窓に反射する自分の姿を映すのにぴったりだ。派手なピンク髪の少女は、そのさらりとした頭を自分の手で軽く撫で、毛流れを整えていた。
この路地の先に、“彼”がいるはずだ。初めてのお仕事のターゲット。
どんな人だろう、好きになれる人だったらいいな。と横髪をいじりながら考える。が、ここでずっとうだうだしていたって仕方がない。思い切って、路地の横道に顔を出す。
「.......えっ」
暗いが少し開けた路地の地面に、 “彼”は倒れていた。血だらけでぐったりしているし、周りにはいかつい人が複数いる。もしかして、お仕事するまえに死んじゃったのだろうか。
せっかくこんな臭くて汚い街に来たのに、とため息をつく。初めての人間界で目撃するものが暴力沙汰なんてあんまりだ。
「はぁ……もうさいあく……」
思わず言葉がこぼれる。気づかれる、と口をおおった時にはもう遅かった。反射していたネオンのライトがさえぎられる。少女に気づいた集団のうちの一人が、腕を振りかぶってくるのが見えた。
「きゃ……」
体を縮こませ、来るであろう衝撃に目をぎゅっと瞑る。少女が痛みを感じることはないが、それでもこわいものは怖い。
……が、いつまで経っても殴られる衝撃は来ず、代わりに情けないうめき声と、人が地面に倒れる音が聞こえてきた。
状況が読めない。遅る遅る目をあけると、血だらけで地面に倒れていたはずの“彼”が、少女に殴りかかろうとしていた男の体を、その長い脚で地面に踏みつけていた。肩が上下している。
路地の向こうからネオンの光が差し込み、彼の唇ににじんだ血が異彩を放っている。平然とした表情にひときわ影が濃くさしていた。
呆気に取られていると、彼は地面からなにかをかすめるように取り、そのまま少女の手をつかんで走り出した。路地を通り抜けながら、彼はふと先ほど拾ったマフラーのようなものを少女の頭に放るようにかぶせる。目の前が見えなくなった。
「ちょっと……!」
見えていない状態で走りたくはない。一体どういうつもりなのかとマフラーを取ろうとすると、彼は振り返りもせずに言った。
「被っとけよ、頼むから!」
あ、思ったよりも声は優しい。少女は目を見開き、それからおとなしく少しだけ手でマフラーを持ち上げた。これで少しは見える。
「おい、逃げたぞ!」「クソ、女もか!?」「あいつらツレかよ!」
メインストリートに飛び込むと、追ってきていたその怒号は、人混みが途切れ途切れに遮断してくれた。少女は彼に手を掴まれたまま、とにかくこけてしまわないよう足を動かす。彼はその長身で人混みをかき分けてゆく。少し外れた静かな通りに出るのに、そう時間はかからなかった。
一つ道を外れると、喧噪がたちまち遠くなったのが不思議だった。少女は膝に手をついて息を整えながら、頭を軽く振ってかぶせられたマフラーを取ろうとする。が、ひっかかって上手く取れなかった。仕方なく手で取る。
目の前には、少しだけ息を切らしている彼がいた。浅黒い褐色肌に、背中に垂れている不思議な編み込まれ方のした髪。でも下半分は短く刈り込まれていて、雑にまとめられたおだんごスタイルと、そこから垂れている長い毛束がすごくイイ感じ。くっきり二重だけど切れ長の目。硬そうな鼻筋と唇。ピアスが多い。一体いくつ開いてるんだろう。
どうしよう、ものすごく好きかも。血さえも、彩度の低い肌によく映えるデザインみたいだ。足も長い、身長はいくつあるのかな。
少女は短く息を吸うと、こちらを見ない彼に笑いかける。
「ねえ、助けてくれてありがとう」
彼はそれでも目を合わせず、興味なさげに古びたカメラをいじりながらぶっきらぼうに言った。
「.......おまえ、ちょっと場違いすぎんだろ」
「でもあなただって油断してたんでしょ」
「うるせえよ」
大きなため息。伏し目がちな顔もカッコイイ、と思わず見とれる。
あ、いけない。大事なことを忘れていた。これはお仕事なのだから。
ねえ、と彼の袖をひっぱりながら上目遣いで彼を窺う。
「わたしのこと好きにしていいから、あなたの家に連れてって。ね、行ってもいいでしょ?」
そう暗い瞳を覗き込むと、今度は彼が呆気にとられた様子で少女の顔を見つめた。やっと目を見てくれた。そう心が沸き立ったのも束の間、彼は眉間に深いしわを刻み、再び盛大なため息をついた。
「わるいが、俺はアセクシャルだ」
……とか言っといて、なんだかんだで部屋には入れてくれた。古いアパートだった。来たときはこんなところで眠れたものじゃないと思っていたけど、そうでもなかったみたいだ。
窓からの冷たい風に撫でられ、少女は翌朝目を覚ました。1989年1月1日、日曜日。
寝ていたのは彼のベッドだけど、服はそのままだ。部屋のなかで、彼の姿を探す。すぐに見つけた。
窓の淵に座り、彼は昨日の怪我の手当をしている。痛々しい傷があちこちににじんでいるが、彼は少しも表情を変えていなかった。
なにか言おうと起き上がると、彼は包帯を巻く手を止めずに、口元を最低限だけ動かすようにして言った。
「おまえ、悪魔だろ」
カーテンが開いていて、快晴で、冷たい風が入ってきている。とても静かな部屋だった。
少女の呼吸がふと止まる。シーツを握る手に力がこもった。
なにも言わずにいると、彼は同じような喋り方で続ける。平坦で淡々とした、けれど低く響くような声。
「そのツノ。作りもんじゃねえだろ」
「えっ」
慌てて頭を触る。手にあたったのはくるりと弧を描いた硬いもの。いつもの形のツノだった。硬直していた思考が、今度は目まぐるしく回りだす。いつから?魔法でツノもしっぽも消していたはず。彼に会う前だって、ちゃんと確認して.......。
でもそういえば。昨日ばさりとかけられたあのマフラー。振り払おうとしたとき、頭の何に引っかかった?
「あー!!!」
思い当たる記憶を掘り当ててしまい、頭を抱える。殴られそうになった時、きっと気が抜けて変化がとれていたのだ。気をつけていたのに。もう、と半泣きになる。
すると、完全にパニックモードの少女には何の反応も示さず、彼はふらりと立ち上がった。朝日を背に表情は読めない。だがその目は、すっと冷えていた。
彼は言葉を探すように少し口を開き、しばらくの沈黙の後に言った。
「おまえは俺をどうしたいんだ?」
今日はちゃんと、彼のほうから目を合わせてくれている。昨日と同じ暗い瞳。だがその深い孤独以上に、なにかを渇望しているような。
出会ってまだ半日も経っていない。それでも尚、悪魔の少女は強く心に決めた。たった今、この瞬間に。正体がばれたのは想定外だったけど、どうだっていい。
このヒトは、わたしが地獄につれていく。
これはお仕事。でも、これは恋。
「ねえ。あなたのこと好きになっちゃったの。わたしはセルフィエル。あなたの名前は?」
Average Sunday @otogi_1989
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