声のない再会
声はなかった。だが、そこに確かに“彼”はいた。
2月24日、朝。 ウルル島の空は、雲ひとつない快晴だった。 椰子の葉が風に揺れ、波が静かに砂浜を撫でていた。
杉本とリリナは、島の奥へと足を進めていた。 田所のノートに記された地図を頼りに、丘を越え、小道をたどる。 ノートの最後のページには、こう記されていた。
「もし俺に何かあったら、このノートを杉本に渡してくれ。 俺は、丘の向こうの集落にいる。 名前は出せねえが、信頼できる人たちだ。 俺の代わりに、記録を頼む」
「……この先に、田所さんが?」
リリナが不安げに尋ねた。 杉本は、ノートを胸に抱きながら頷いた。
「ええ。 でも、もしかしたら、もうここにはいないかもしれません。 それでも、行って確かめたいんです」
ふたりは、木々の間を抜け、小さな集落にたどり着いた。 そこには、数軒の草葺きの家が並び、子どもたちが走り回っていた。 その光景は、戦争とは無縁の、穏やかな時間だった。
「こんにちは」
杉本が声をかけると、ひとりの老人が近づいてきた。 日焼けした顔に深い皺を刻んだその人は、ふたりをじっと見つめた。
「……お前たち、田所を探してるのか?」
「はい。 彼は、ここに来たと記録にありました。 今も、ここに?」
老人は、しばらく黙っていた。 やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……あいつは、もういない。 3日前、海に出た。 “記録を届けに行く”って言ってな。 舟が小さくて、ひとりで行くって聞かなかった」
杉本は、言葉を失った。 リリナが、そっと彼の腕を握った。
「……そう、ですか。 でも、彼は生きていた。 そして、記録を残してくれた。 それだけで、十分です」
老人は、ふたりを小屋のひとつに案内した。 そこには、田所が使っていたという机と、もうひとつの木箱があった。
「これを、お前に渡せと言われていた。 “杉本が来たら、これを託してくれ”ってな」
杉本は、箱を開けた。 中には、現像済みの写真と、短い手紙が入っていた。
「杉本へ お前がこれを読んでるってことは、俺はもうここにいないんだな。 でも、心配すんな。 記録は、お前に託した。 俺の分も、ちゃんと残してくれ。 それが、お前の仕事だ。 それが、俺たちの戦いだ。 じゃあな。 ――田所」
杉本は、写真を手に取った。 そこには、田所が子どもたちと笑い合う姿が写っていた。 その笑顔は、あの日と変わらなかった。
「……田所さん」
彼は、そっと写真を胸に抱いた。 涙は出なかった。 ただ、胸の奥が、静かに熱くなっていた。
「彼は、ちゃんと生きて、記録を残してくれた。 それだけで、十分です」
リリナは、そっと頷いた。
「うん。 わたしたちも、帰ろう。 この記録を、届けに」
その日、杉本は日誌にこう記した。
「2月24日、午前。 ウルル島集落にて、田所一等兵曹の記録を受領。 本人は3日前に出航。消息不明。 記録者、記録係補佐の意志を継承。 記録は、声を超えて届く。 記録は、再会をつなぐ。 記録は、生きている」
風が、島の木々を揺らした。 その音は、まるで“またな”と笑う田所の声のようだった。
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