海の上の記録

舟は、静かに波を裂いた。


2月23日、夜明け前。 空はまだ藍色に染まり、水平線の向こうにかすかな光が滲んでいた。 杉本とリリナは、南の入り江から小舟を出した。 目指すは、田所がいるかもしれないウルル島。


風は穏やかで、帆はゆっくりと膨らんだ。 波は低く、海はまるで眠っているようだった。


「……出ましたね」


杉本がつぶやくと、リリナは頷いた。 彼女は舵を握り、まっすぐ前を見つめていた。


「うん。  でも、まだ信じられない。  島が、どんどん小さくなっていく」


ふたりは、しばらく無言で海を進んだ。 背後には、トラック島の影がゆっくりと遠ざかっていく。 焼け跡と煙の残るその島は、まるで過去そのもののようだった。


「……あの島に、全部置いてきた気がします」


杉本が言った。


「でも、持ってきたものもあるでしょ?」


リリナが微笑む。


「カメラと、日誌と……わたし」


杉本は、少し照れたように笑った。


「ええ。  どれも、大切な記録ですから」


「わたしも、持ってきたよ。  あなたの写真。  あのスカーフに包んで、ちゃんと」


「ありがとう。  君がいてくれて、本当によかった」


風が、ふたりの間を通り抜けた。 帆がはためき、舟は少しだけ速度を上げた。


「ねえ、スギモトさん。  記録って、誰のために残すの?」


「……昔は、上官のためだと思ってました。  でも今は、違います。  誰かのため、というより――  “誰かが生きていた”ってことを、  未来に伝えるために、残すんだと思います」


「未来に?」


「はい。  僕たちは、今を生きているけど、  いつか、誰かがこの記録を見て、  “こんな時代があったんだ”って思ってくれたら、  それだけで、意味があると思うんです」


リリナは、しばらく黙っていた。 やがて、そっと言った。


「じゃあ、わたしたちの旅も、記録になるのかな」


「もちろんです。  この舟の揺れも、風の匂いも、  君の声も、全部、記録します」


杉本は、カメラを構えた。 リリナが舵を握る姿を、ファインダー越しに見つめる。


「撮りますよ」


「うん。ちゃんと笑うね」


シャッターが切られた。 その音が、波の音に溶けていく。


「……ねえ、田所さん、どんな顔してるかな。  元気かな」


「きっと、笑ってますよ。  あの人は、どんなときでも笑ってましたから」


「会えたら、何て言う?」


「ありがとう、って言います。  そして、記録を受け取ります。  彼が守ってくれたものを、僕が引き継ぐ」


「わたしは……“おかえり”って言いたいな」


ふたりは、海の上で静かに笑い合った。 太陽が、水平線から顔を出し始めた。 海が金色に染まり、舟の影が長く伸びていく。


その朝、杉本は日誌にこう記した。


「2月23日、午前。  出航成功。天候良好、風穏やか。  目的地:ウルル島。  記録者、記録受領と再会を目指す。  同行者:リリナ。  記録は、海を渡る。  記録は、未来へ向かう」


波は静かに、しかし確かに、ふたりを運んでいた。

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