出航前夜

海は、静かだった。だが、心はざわめいていた。


2月22日、夜。 杉本とリリナは、南の入り江にいた。 明日の朝、ここから舟を出す。 目指すは、田所がいるかもしれないウルル島。


舟は、島の漁師が残していった小型の帆付きボートだった。 帆は破れていたが、リリナが避難所の布を使って補修してくれた。 食料と水、予備のフィルムと日誌、そしてカメラ。 必要最低限の荷物を積み終えたころには、空はすっかり夜に染まっていた。


「……準備、終わりましたね」


杉本が言うと、リリナは小さく頷いた。


「うん。  でも、なんだか、まだ信じられない。  明日、本当にこの島を出るなんて」


ふたりは、舟のそばに腰を下ろした。 波は穏やかで、月が海面に長い光の道を描いていた。


「怖いですか?」


「少しだけ。  でも、それよりも……楽しみ。  この島しか知らなかったから。  外の世界を、自分の目で見てみたいって、思ってた」


杉本は、リリナの横顔を見つめた。 月明かりに照らされたその表情は、どこか大人びて見えた。


「僕も、同じです。  記録を始めたときは、ただ命令だからって思ってました。  でも今は違う。  誰かの生きた証を残すことが、こんなにも大事だなんて、思ってもみなかった」


リリナは、そっと杉本の手を取った。


「あなたの記録、わたしも守る。  だから、絶対に帰ってこようね。  田所さんに会って、記録を受け取って、  またこの島に戻って、みんなに伝えよう」


「……はい。約束します」


ふたりは、しばらく手をつないだまま、波の音に耳を澄ませていた。 遠くで、かすかに鳥の声がした。 夜の海は、まるで眠っているように穏やかだった。


「ねえ、スギモトさん」


「はい」


「もし、明日……海が荒れて、舟が沈んだら……  あなたのカメラ、わたしが守るから。  だから、あなたは、わたしを守って」


杉本は、少し驚いたように彼女を見た。 だが、すぐに頷いた。


「……わかりました。  でも、沈みませんよ。  僕たちは、ちゃんと帰ってきます。  記録を持って、笑って」


リリナは、ふっと笑った。


「うん。  あなたがそう言うなら、きっと大丈夫」


その夜、ふたりは舟のそばで眠った。 毛布を分け合い、背中を寄せ合って。 空には、無数の星が瞬いていた。


杉本は、眠る前に日誌を開き、こう記した。


「2月22日、夜。  出航準備完了。目的地:ウルル島。  同行者:リリナ。  記録者、記録受領と再会を目指す。  記録とは、過去を残すことではなく、未来へ渡すこと。  明日、記録は海を渡る」


風が、そっと帆を揺らした。 それは、旅立ちを祝福するような、やさしい風だった。

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