沈黙の夜
音のない夜だった。
爆撃は、日が沈むとともに止んだ。 空はまだ煙に覆われていたが、星がひとつ、ふたつと顔を出し始めていた。 風はなく、波の音も遠く、島全体が深い呼吸をしているようだった。
杉本は、崩れた通信塔のそばに腰を下ろしていた。 背中には、まだ熱を帯びた瓦礫の感触。 手には、カメラと日誌。 だが、シャッターを切る気にはなれなかった。
(田所さん……)
彼の背中が、何度も脳裏に浮かんだ。 笑っていた。 冗談を言っていた。 だが、その笑顔の奥には、ずっと覚悟があったのだと、今ならわかる。
「……寒くない?」
リリナの声がした。 彼女は、杉本の隣にそっと座った。 肩には、焦げた毛布を羽織っている。
「少しだけ。でも、大丈夫です」
「……田所さん、行っちゃったね」
「はい。 でも、きっと戻ってきます。 あの人は、そういう人ですから」
リリナは、空を見上げた。 星が、少しずつ増えていた。
「空、きれいだね。 こんなに静かなのに、昨日まであんなに……」
言葉が途切れる。 杉本も、空を見上げた。
「……空は、何も変わってないのかもしれません。 変わったのは、僕たちの方です」
「……うん」
しばらく、ふたりは黙って空を見ていた。 風が、ようやくそっと吹いた。 焦げた空気の中に、潮の香りが混じっていた。
「スギモトさん」
「はい」
「わたし、こわいよ。 兄もいない。家もない。 田所さんもいなくなって…… でも、あなたがいると、少しだけ安心するの」
杉本は、ゆっくりと頷いた。
「僕も、同じです。 君がいてくれるから、僕はここにいられる。 記録を続けられる」
リリナは、そっと杉本の肩に寄り添った。 その体は、小さく、震えていた。
「わたし、あなたの写真、好きだった。 笑ってる人も、泣いてる人も、 みんな、ちゃんとそこに生きてた。 だから、わたしも、写してほしかった」
「……写しましたよ。 君が浜辺で笑っていたときも、 塔の下で手紙をくれたときも。 全部、残ってます」
「ほんとに?」
「ええ。 君は、もう記録の中にいます。 だから、君がいなくなっても、君はここにいる」
リリナは、目を閉じた。 その頬を、ひとすじの涙が伝った。
「ありがとう。 わたし、あなたに会えてよかった」
杉本は、そっと彼女の手を握った。 その手は冷たかったが、確かに生きていた。
「……生きましょう。 僕たちは、まだここにいる。 だから、生きて、残しましょう。 君のことも、田所さんのことも、 この島で起きたことも、全部」
リリナは、静かに頷いた。
「うん。生きる。 あなたと一緒に」
夜が、深まっていく。 星は、さらに増えていた。 空は、まるで何事もなかったかのように、静かに広がっていた。
だが、ふたりの胸の中には、確かなものがあった。 それは、記録ではなく、記憶。 言葉ではなく、想い。 そして、未来へとつながる、小さな希望だった。
その夜、杉本は日誌にこう記した。
「2月18日、夜。 爆撃停止。空、晴れ。星、明瞭。 田所一等兵曹、記録箱を携え出発。消息不明。 リリナと共に、塔跡にて静坐。 記録者、記憶と記録の境界に立つ。 沈黙の夜に、確かな鼓動を感じた」
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