田所の決意
「俺が運ぶ。お前は、生きろ」
その言葉は、静かだった。 だが、杉本の胸に、雷のように響いた。
塔の裏手で掘り出した木箱を前に、杉本はまだ膝をついたまま、息を整えていた。 箱の中には、彼が守ろうとしたすべてが詰まっていた。 写真、日誌、リリナの手紙、未現像のフィルム。 それらは、爆撃の中をくぐり抜け、奇跡的に無事だった。
「これを……どこか安全な場所に……」
杉本は呟いた。 だが、言葉の先が続かなかった。 島中が燃えていた。 港は壊滅し、通信塔は崩れ、避難所も満杯。 “安全な場所”など、どこにもなかった。
「杉本」
田所が、静かに言った。
「俺が、これを持っていく。 お前は、ここに残れ」
「……え?」
「お前がここで死んだら、意味がねえ。 記録は残っても、語る人間がいなきゃ、ただの紙切れだ」
杉本は、首を振った。
「でも、それじゃ田所さんが――」
「いいんだよ」
田所は、笑った。 それは、いつものような軽口ではなかった。 どこか、懐かしさすら感じる、穏やかな笑顔だった。
「俺はな、ずっと考えてたんだ。 弟が死んで、俺は何のためにここにいるんだろうって。 でも、今はわかる。 お前の記録を守るためだ。 それが、俺の戦いだ」
杉本は、言葉を失った。 胸の奥が、熱くなる。
「でも……俺が行きます。 これは、俺の責任です」
「バカ野郎」
田所は、杉本の胸ぐらを掴んだ。
「お前が死んだら、誰がこの記録を語るんだよ。 誰が、リリナのことを、弟のことを、 この島で何があったかを、伝えるんだよ」
杉本は、拳を握りしめた。 悔しさと、情けなさと、そして――感謝が、胸に渦巻いた。
「……わかりました。 でも、絶対に戻ってきてください。 俺、待ってますから」
「おう。任せとけ。 俺はしぶといからな。 ちょっとやそっとじゃ死なねえよ」
田所は、木箱を背負い、立ち上がった。 その背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。
「どこへ行くんですか?」
リリナが、心配そうに尋ねた。
「南の入り江に、まだ使える小舟がある。 あそこからなら、少なくともこの島の外には出られる。 あとは、運だな」
「……気をつけて」
「おう。お前も、杉本を頼むな」
リリナは、そっと頷いた。
田所は、ふたりに背を向け、歩き出した。 爆音が遠くで響く中、その足取りは、まっすぐだった。
杉本は、彼の背中を見送った。 その姿が、煙の中に消えていくまで、目を逸らさなかった。
「……田所さん」
彼は、呟いた。
「あなたがいたことも、俺が記録します。 絶対に、忘れません」
その夜、杉本は日誌にこう記した。
「田所一等兵曹、記録箱を携え、南の入り江へ向かう。 目的:記録の退避と保存。 記録者の命を守るため、自らの命を懸ける。 彼の背中は、戦場で見た中で、最も強く、優しかった」
空は、再び曇り始めていた。 だが、杉本の胸の中には、確かな光が灯っていた。
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