再びの空

夜が明けた。だが、朝は来なかった。


1944年2月18日、午前五時過ぎ。 空は灰色に濁り、太陽は雲の向こうでぼんやりと光っていた。 だが、その光は温かくなかった。 空気は重く、湿っていて、地面にはまだ昨日の爆撃の熱が残っていた。


杉本は、通信塔の屋上に立っていた。 風はなく、空は静かだった。 だが、その静けさの奥に、確かな“うねり”があった。


(また来る)


それは確信だった。 昨日の爆撃は、序章にすぎない。 敵はまだ、空にいる。 そして、今日もまた――この島を焼きに来る。


彼は、胸ポケットから新しい日誌を取り出した。 表紙には、昨日の夜に記した言葉がある。


「記録は、生き延びる」


その言葉を指先でなぞりながら、彼はページを開いた。


「2月18日、午前五時十二分。  空、曇天。風、微弱。  爆撃再開の兆候あり。  記録者、通信塔屋上にて待機」


そのとき、遠くから低い唸りが聞こえた。 空の奥で、何かが動いている。 耳を澄ますと、それは確かに“編隊”の音だった。


「……来たか」


彼は、カメラを構えた。 レンズの先に、まだ点のように小さな影が見える。 だが、その数は明らかに多い。 昨日よりも、さらに密集している。


「杉本!」


階段を駆け上がってきたのは田所だった。 息を切らしながら、手にはヘルメットと防空頭巾を持っている。


「お前、また屋上かよ! 死ぬ気か!」


「……記録しないと。  昨日よりも、もっと大きい。  これは、ただの空襲じゃない。  “殲滅”だ」


田所は、杉本の目を見て、言葉を失った。 その瞳には、恐怖ではなく、確かな意志が宿っていた。


「……わかった。  でも、せめてこれ、被っとけ」


田所は、無理やりヘルメットを杉本の頭にかぶせた。 そして、自分も隣に腰を下ろした。


「俺も見るよ。  どうせ逃げ場なんて、もうねえしな。  だったら、せめて最後まで見てやる」


ふたりは並んで、空を見上げた。 やがて、編隊が姿を現した。 昨日と同じ、いや、それ以上の数の爆撃機。 その下に、戦闘機が護衛のように付き従っている。


「……B-24だな。あれは」


田所が呟いた。


「高高度からの絨毯爆撃。  この島を、地図から消す気だ」


杉本は、シャッターを切った。 爆撃機の編隊。 その下に広がる、まだ燃え残る島の風景。 そして、空を見上げる田所の横顔。


「記録します。  この空を。  この島を。  そして、ここにいた人たちを」


「……お前、やっぱ変わってるな」


田所は、少しだけ笑った。 だが、その笑顔はどこか誇らしげだった。


「でも、そういう奴がいなきゃ、何も残らねえ。  俺たちがここにいたってことも、  この空が、どれだけ怖かったかも」


爆音が、空を裂いた。 第一波の爆撃が始まった。


地面が揺れ、塔の下から黒煙が立ち上る。 だが、杉本は動かなかった。 ファインダーを覗き、次々にシャッターを切る。


爆風が頬を打ち、破片が屋上をかすめる。 田所が身をかがめ、杉本をかばうように覆いかぶさった。


「バカ! 撮るのはいいけど、死ぬなよ!」


「……はい。  でも、これだけは撮らせてください。  この空を、忘れないために」


ふたりは、爆音の中で身を寄せ合いながら、空を見上げた。 そこには、無数の黒い影が、まるで空そのものを覆うように広がっていた。


そのとき、杉本の耳に、かすかな声が届いた。


「……スギモトさん」


振り返ると、階段の下に、リリナが立っていた。 服は汚れ、髪は乱れていたが、彼女は確かにそこにいた。


「リリナ……!」


「兄は、もういない。  でも、わたしは、ここにいる。  だから、あなたの記録に、わたしも残して」


杉本は、涙がこぼれそうになるのをこらえながら、カメラを構えた。


「……もちろん。  君は、ここにいた。  それを、俺が証明する」


シャッターが切られた瞬間、空が再び爆ぜた。

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