リリナの家

杉本は、走っていた。


爆撃の合間を縫って、彼は島の南側――現地住民の集落へ向かっていた。 リリナの姿が、どこにも見えなかった。 防空壕にも、避難所にもいない。 彼女がよくいた浜辺も、今は黒煙に包まれていた。


(無事でいてくれ)


その願いだけが、彼の足を動かしていた。


集落に近づくにつれ、空気が変わった。 爆撃の音は遠のき、代わりに静寂が広がっていた。 だが、その静けさは、安堵ではなく不気味な沈黙だった。


リリナの家は、入り江の近くにあった。 小さな木造の家。 白い布が干されていた軒先は、すでに崩れかけていた。


「……リリナ!」


杉本は、扉を開けて中に入った。 誰もいない。 家具は倒れ、壁にはひびが入り、床には砂と灰が散っていた。


だが、そこに――ひとつだけ、整然と置かれたものがあった。


机の上に、小さな布包み。 その上に、紙切れが一枚。


震える手で紙を開くと、そこにはたどたどしい日本語で、こう書かれていた。


「スギモトさんへ わたしは、兄をさがしにいきます。 ここにいたら、なにもできないから。 でも、あなたがいてくれて、うれしかった。 ありがとう。 リリナ」


杉本は、しばらくその場に立ち尽くした。 布包みを開くと、中には――彼が撮った写真が入っていた。 リリナの横顔。 波打ち際に立つ姿。 そして、笑っている一枚。


(持っていかなかったのか……)


それは、彼女が“残した”ものだった。 自分の存在を、誰かに覚えていてほしいという、静かな願い。


杉本は、写真を胸に抱き、深く息をついた。


「……ありがとう。俺が、記録するよ。  君が、ここにいたことを」


そのとき、遠くで再び爆音が響いた。 空が赤く染まり、地面が震える。


杉本は、写真を大切に包み直し、日誌に挟んだ。 そして、家を出て、再び通信塔の方角へと走り出した。


その背中に、風が吹いた。 焦げた空気の中に、かすかに潮の香りが混じっていた。

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