ヘイルストーン作戦・前夜
空は、あまりにも静かだった。
1944年2月16日、夜。 杉本は、通信塔の屋上に立っていた。 風はなく、雲は低く垂れ込め、星はひとつも見えなかった。 空気は重く、肌にまとわりつくような湿気が漂っていた。
(来る)
確信だった。 昨夜の暗号文。 「敵艦隊、トラック方面接近中」 山城大尉は報告を禁じたが、杉本の中では、すでに答えが出ていた。
「明日だ」
彼は、胸ポケットから日誌を取り出し、そっと開いた。 余白に、鉛筆で小さく書き加える。
「2月16日、夜。空、無音。風、止む。 明日、何かが起きる。 記録者の予感として、ここに記す」
そのとき、背後から声がした。
「おーい、杉本ー! こんなとこで何してんだよ」
田所だった。 手には缶詰と湯飲みを持っている。
「夜食、持ってきたぞ。 お前、また屋上で詩人みたいな顔してたろ」
「……ありがとうございます」
杉本は、湯飲みを受け取り、缶詰の蓋を開けた。 中身は、みかんのシロップ漬けだった。
「贅沢で悪いな。 でも、こういうときくらい、甘いもん食っとけよ。 明日、何があるかわかんねえしな」
田所の言葉に、杉本は一瞬、目を見開いた。
「……田所さんも、気づいてるんですね」
「そりゃな。 空が静かすぎる。 無線の雑音も、風の流れも、全部が“嵐の前”って感じだ」
田所は、缶詰のシロップをすすりながら、ぽつりと呟いた。
「でもな、俺は今日、笑って終わりたいんだよ。 明日がどうなろうと、今日くらいは、笑ってたい」
杉本は、黙って頷いた。
「……写真、撮ってもいいですか」
「おう、いいぞ。 ちゃんと笑ってやるからな」
杉本は、カメラを構えた。 田所は、缶詰を掲げて、にやりと笑った。
シャッターが切れる。 その音が、夜の静寂に吸い込まれていく。
「なあ、杉本。 お前、明日が来なかったら、どうする?」
「……記録します。 最後まで、見たことを」
「そっか。 じゃあ、俺も最後まで笑ってるよ。 それが、俺のやり方だからな」
ふたりは、しばらく無言で夜空を見上げていた。 雲は動かず、風も吹かない。 ただ、遠くの海の向こうで、何かが静かに近づいている気配だけがあった。
その夜、杉本は日誌にこう記した。
「田所一等兵曹、笑顔の写真を記録。 空は沈黙。風は止む。 明日、嵐が来る。 だが、今日の笑顔は、確かにここにあった」
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