暗号文
それは、いつもの雑音とは違っていた。
夜の通信塔。 杉本は、定時通信の確認を終えたあとも、無線機の前から離れられずにいた。 ここ数日、空の様子は不安定で、無線にも断続的なノイズが混じっていた。 だが今夜のそれは、明らかに異質だった。
「……これは」
ヘッドホンの奥で、微かに聞こえるモールス信号。 だが、通常の周波数ではない。 軍の定めた帯域から、わずかに外れていた。
(誤送信か? いや、違う。これは……)
彼はすぐに手元のメモ帳を開き、聞き取れる限りの符号を書き取っていく。 断片的な信号。 ところどころ、雑音にかき消されている。 だが、繰り返される単語があった。
「…トラック…敵艦隊…接近中…」
杉本の手が止まった。 心臓が、ひとつ大きく脈打つ。
(これは……警告か?)
彼はすぐに復号表を開き、符号の意味を確認する。 内容は断片的だが、確かに“敵艦隊接近”という語が含まれていた。
「……まさか」
彼は震える手で、報告用紙を取り出し、簡潔に内容をまとめた。 そして、通信塔の内線を使って、山城大尉を呼び出した。
「杉本か。どうした」
「緊急通信です。通常帯域外からの信号で、内容は不完全ですが…… “トラック方面に敵艦隊接近中”という文言が含まれていました」
沈黙が数秒続いた。
「……記録は残しておけ。だが、上には報告するな」
「え?」
「誤報の可能性がある。 不確かな情報で隊を混乱させるわけにはいかん。 これは命令だ」
「……了解しました」
通話が切れたあと、杉本はしばらく受話器を握ったまま動けなかった。
(命令……か)
彼は、報告用紙を破らずに、そっと日誌に挟んだ。 そして、日誌の余白にこう書き記した。
「午後二二時三五分、通常帯域外より暗号通信受信。 内容:敵艦隊、トラック方面接近中。 上層部への報告は却下。命令により保留。 記録者の判断により、非公式に保存」
その文字を見つめながら、杉本は思った。
(命令に従うことと、記録することは、別だ)
彼の中で、何かが静かに切り替わった。
その夜、空は雲に覆われ、星ひとつ見えなかった。 だが、杉本の胸の中には、確かな光が灯っていた。
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