田所の沈黙

「笑ってる方が、怖くないんだよ」


その言葉の意味を、杉本はようやく理解し始めていた。


夜の通信塔は、静まり返っていた。 無線は定時通信を終え、今はただ、機械の低い唸りだけが響いている。 杉本は、整備用の工具を片付けながら、ふと隣室の明かりがついているのに気づいた。


無線室の扉が、わずかに開いていた。 中から漏れるのは、紙をめくる音と、かすかな独り言。


「……あいつ、こんな字だったか……」


田所の声だった。


杉本は、そっと扉をノックした。


「田所さん、まだ起きてたんですか」


「おう、杉本。悪いな、うるさかったか?」


「いえ。……何を読んでるんですか?」


田所は、机の上の封筒を指差した。 中には、数枚の便箋が入っていた。


「弟からの手紙だよ。戦死の報せが来る前に届いたやつ。  ずっと、読めなかったんだけどな。  今日、ようやく開けた」


杉本は、黙って隣に腰を下ろした。


「“兄貴、そっちはどうだ。俺は元気だ。  島の空はきれいで、夜になると星がすごい。  でも、たまに全部が嘘みたいに思える”……だってさ」


田所は、手紙を見つめながら、かすかに笑った。


「笑ってる方が、怖くないって、俺が言ったろ。  あれ、本当なんだよ。  でもな、あいつも、同じこと考えてたんだなって思ったら……  なんか、もう、どうしていいかわかんなくなってさ」


杉本は、そっと問いかけた。


「田所さんは、どうして笑ってるんですか。  本当は、泣きたいんじゃないですか?」


田所は、しばらく黙っていた。 やがて、ぽつりと呟いた。


「泣いたら、止まらなくなりそうでな。  だから、笑ってんだよ。  笑ってるうちは、まだ俺は“ここ”にいるって思えるから」


“ここ”――それは、戦場であり、日常であり、弟のいない世界だった。


「杉本、お前の写真、俺は好きだよ。  お前が撮ってるのは、ただの風景じゃない。  そこにいる人間の“気配”が写ってる。  だから、俺も写してくれ。  笑ってる俺でも、黙ってる俺でも、どっちでもいい。  俺がここにいたってこと、残してくれ」


杉本は、深く頷いた。


「……わかりました。  ちゃんと、残します。  田所さんの“今”を」


その夜、杉本は日誌にこう記した。


「田所一等兵曹、弟の手紙を読む。  笑いは、彼の鎧であり、彼の灯でもある。  記録することは、誰かの“存在”を肯定すること。  俺は、それを忘れない」

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