リリナの秘密
「兄は、何かを止めようとしてたの」
夕暮れの浜辺に、潮騒が静かに響いていた。 杉本は、入り江の岩陰に腰を下ろし、波を見つめていた。 空は茜に染まり、雲が低く垂れ込めている。 風はなく、空気は重い。 まるで、何かがこの島を包み込もうとしているようだった。
「来てくれて、ありがとう」
背後から声がした。 振り返ると、リリナが立っていた。 白いワンピースに、素足。 その姿は、島の風景に溶け込んでいた。
「……昨日は、ありがとう。 あのあと、ずっと考えてたの。話すべきかどうか」
杉本は、静かに頷いた。
「俺も、話したいことがある。 でも、君の話を先に聞かせて」
リリナは、波打ち際まで歩き、しばらく黙って海を見つめていた。 やがて、ぽつりと口を開いた。
「兄は……たぶん、もうこの島にはいない」
「いない?」
「数日前、夜にこっそり出ていったの。 何も言わずに。 でも、私は知ってた。兄が何をしてたか」
杉本の胸が、かすかにざわついた。 あの写真のことが、頭をよぎる。
「兄はね、日本の人たちが、この島で何をしてるのか、ずっと見てたの。 兵隊さんたちが、何を運んで、何を隠してるのか。 誰と、どこで、何を話してるのか。 それを、誰かに伝えてたの」
「……アメリカに?」
リリナは答えなかった。 ただ、波を見つめたまま、唇を噛んでいた。
「兄は、戦争を止めたかったの。 この島が、焼かれる前に。 でも……間に合わなかった」
杉本は、言葉を失った。 あの夜の写真。 小舟に乗るふたりの影。 そのうちのひとりが、リリナの兄だったのだと、確信した。
「俺……写真を撮ったんだ。 夜の浜辺で、小舟に乗るふたりを。 そのときは、何が起きてるのか、わからなかった。 でも今なら、わかる気がする」
リリナは、ゆっくりと杉本の方を向いた。 その瞳には、涙が浮かんでいた。
「見たの?」
「……ああ。 でも、誰にも言ってない。 言えなかった。 俺も、怖かったんだと思う。 何が正しいのか、わからなくて」
リリナは、そっと頷いた。
「ありがとう。 兄は、きっと……あなたに見てほしかったんだと思う。 誰かに、覚えていてほしかったんだよ。 自分が、ここにいたってことを」
杉本は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。 記録すること。 それは、ただの趣味でも、任務でもなかった。 誰かの“存在”を、この世界に刻むための行為だった。
「……俺、あの写真を残すよ。 誰にも見せないかもしれないけど、 でも、消さない。 君の兄さんが、ここにいたってことを、俺が覚えてる」
リリナは、涙を拭いながら、微笑んだ。
「それで、十分だよ」
空が、ゆっくりと群青に染まっていく。 波は静かに寄せては返し、ふたりの足元を濡らしていった。
その夜、杉本は日誌にこう書いた。
「リリナの兄、消息不明。 だが、彼の行動には意味があった。 記録とは、誰かの存在を肯定すること。 俺は、それを忘れない」
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