中原医務長の忠告

「記録は、残すためのものだ。だが、命を削ってまでやることじゃない」


中原医務長の声は、いつも通り静かだった。 通信塔の裏手にある医務室。 杉本は、軽い頭痛と耳鳴りを訴えて診察を受けていた。


「無線の雑音、ずっと聞いてたんだろう。耳が疲れてる。  それに……お前、最近眠れてないな?」


「……はい。少し、寝つきが悪くて」


「夢を見るか?」


「……見ます。音のない夢です。  空襲のような、でも何も起きない。  ただ、空が落ちてくるような……そんな夢です」


中原は黙って頷き、棚から薬包を取り出した。 白い粉薬を紙に包みながら、ぽつりと呟いた。


「俺も、似たような夢を見たよ。上海にいた頃な。  空が赤く染まって、街が燃えて、誰も声を出さない。  あれは、戦争の音じゃない。沈黙の音だ」


杉本は、思わず顔を上げた。


「沈黙の……音?」


「ああ。人が、何も言えなくなるときの音だ。  恐怖でも、諦めでも、怒りでもない。  ただ、何も言えなくなる。  そのとき、人は記録をやめる。  だから、お前のやってることは、意味がある」


中原は、薬包を杉本に手渡した。


「だがな、記録は残すためのものだ。  命を削ってまでやることじゃない。  お前が死んだら、その写真も日誌も、誰にも届かない」


杉本は、薬包を受け取りながら、黙って頷いた。


「……でも、記録してないと、怖いんです。  何が起きたのか、何を見たのか、わからなくなるのが」


「それは、わかる。  だが、記録することと、背負い込むことは違う。  全部を抱え込むな。お前は、まだ若いんだ」


中原の目は、どこか遠くを見ていた。 その瞳の奥に、かつて見た地獄の残像が揺れているようだった。


「……中原さんは、どうして軍医になったんですか?」


「人を殺したくなかったからだよ」


即答だった。 杉本は、言葉を失った。


「俺は、戦争が嫌いだ。  でも、逃げることもできなかった。  だからせめて、誰かを助ける側にいたかった。  それだけだ」


中原は、椅子に深く腰を下ろし、目を閉じた。


「お前の記録は、いつか誰かの命を救うかもしれない。  だが、それは“お前が生きていれば”の話だ。  忘れるなよ、杉本」


その言葉は、静かに、しかし確かに胸に残った。


医務室を出た杉本は、空を見上げた。 雲は低く、風は止んでいた。 空の色が、昨日よりも少し重く見えた。


彼は胸ポケットから日誌を取り出し、ページを開いた。 そして、今日の記録を書き始めた。


「午前一〇時、診察。中原医務長の忠告。  記録は、生きて届けるもの。  沈黙の音に、呑まれぬように」


書き終えたあと、彼はしばらくペンを握ったまま、動かなかった。


(俺は、何を残したいんだろう)


その問いは、まだ答えを持たなかった。 だが、問い続けることこそが、彼の“記録”の始まりだった。

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