写真と秘密

写真は、記憶を閉じ込める器だ。


杉本清志は、夜の通信塔でひとり、現像液の匂いに包まれていた。 倉庫の奥にある小さな暗室。赤いランプの下、彼は慎重にフィルムを水に浸し、像が浮かび上がるのを待っていた。


現像は、彼にとって儀式のようなものだった。 日誌に書ききれない感情や、言葉にできない風景を、写真に託す。 それが、彼の“記録”だった。


「……よし」


浮かび上がったのは、昨日の浜辺。 波打ち際に立つリリナの横顔。 風に揺れる髪、遠くを見つめる瞳。 その一枚は、他のどの写真よりも、静かで、強かった。


杉本は、その写真を封筒に入れ、他の写真とは別に保管した。 これは、誰にも見せない。 見せられない。


彼のロッカーには、すでに何十枚もの写真が収められていた。 島の空、椰子の木、子どもたちの笑顔、田所の背中。 どれも、戦場とは思えないほど穏やかで、優しい。


だが、その中に一枚だけ、異質な写真があった。


それは、数週間前に撮ったものだった。 夜の浜辺。 遠くに、小舟が浮かんでいた。 その舟には、ふたりの人影があった。


ひとりは、明らかに日本兵ではなかった。 もうひとりは、現地の若い男。 リリナの兄――かもしれない。


杉本は、その写真を撮ったあと、ずっと迷っていた。 報告すべきか。 見なかったことにするか。


だが、結局、彼は何もしなかった。 写真は、封筒に入れたまま、ロッカーの奥に眠っている。


「……俺は、何を守ってるんだろうな」


誰にともなく呟いた声が、暗室の壁に吸い込まれていく。


そのとき、扉の外からノックの音がした。


「杉本、いるか?」


田所の声だった。


「います。どうぞ」


扉が開き、田所が顔を覗かせた。 手には、缶詰と湯飲み。


「夜食、持ってきたぞ。お前、またこもってると思ってな」


「ありがとうございます」


杉本は手を拭き、湯飲みを受け取った。 温かい麦茶の香りが、現像液の匂いを和らげた。


「また写真か?」


「ええ。……昨日の、浜辺です」


「リリナちゃんか?」


杉本は、少しだけ頷いた。


田所はにやりと笑った。


「お前、あの子のこと、気になってんだろ」


「……そういうわけじゃ」


「いいって、別に。俺だって、あの子の兄貴と話したことあるしな。ちょっと変わったやつだったけど、悪い奴じゃなかったよ」


「兄さん、最近見かけませんね」


「さあな。どっか行ったって噂もあるけど……まあ、戦争だからな」


田所は、ふっと目を伏せた。


「……いろんなもんが、いなくなる」


その言葉に、杉本は返す言葉を失った。


ふたりはしばらく黙って、麦茶をすすった。


やがて田所が立ち上がり、肩を軽く叩いた。


「お前の写真、好きだよ。  でもな、撮るだけじゃなくて、ちゃんと見せてやれよ。  誰かに、残すために撮ってるんだろ?」


そう言って、田所は出ていった。


杉本は、再びロッカーを開けた。 封筒の中の写真を取り出し、しばらく見つめる。


波の音が、耳の奥で鳴っていた。 あの夜の、あの舟の、あの影。


彼は写真を封筒に戻し、そっと鍵をかけた。

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