マイ・フェイバリット・アクセラレーション

諏訪野 滋

マイ・フェイバリット・アクセラレーション

 信号が赤に変わるのが、リムジンの後席から見えた。窓越しに流れる景色がそよ風のように凪いでいき、やがて羽が床に落ちるように車がふわりと停止する。運転席の綾地あやちは前方を見つめたままで、しわぶき一つ発しない。アイドリングストップが作動して、広い車内に沈黙が流れる。

 最初に気に入ったのは、加速度。大人の彼女が高校生の私を壊れ物のように扱ってくれるのが、今みたいなブレーキマナーに表れていて、ちょっと優越感。

 再びじんわりと景色が動き出し、私は信号が青になっていたことにようやく気付いた。まだ二十台の若さだと聞いていたけれど、まるでベテランのタクシードライバーみたいに彼女のアクセルワークは完璧だ。

「ねえ、綾地」

「は、はい。お嬢様」

「そんなに緊張しなくていいわよ。私だって車での送り迎えなんて中学までは無かったんだから」

 黙っている彼女を、私はからかってみたくなった。

「まったくあなたも災難ねえ。高校の入学祝いがリムジンでの登下校、なんていうお父様の気まぐれにつきあわされて」

 ハンドルを握りしめた綾地は、やはり何も言わない。顔を合わせてまだ一週間だから無理もないけれど、どうしてこっちが気を使ってやらなきゃいけないのか。

「あなたが仕事中なのはわかるけれどさ。少しは、プライベートな話につきあってくれてもいいんじゃない?」

「……社長さんから、お嬢様にはあまり話しかけないようにと言われてますので」

「え、どうして?」

「私、育ちがあまり良くないんで。きっと、お嬢様に馬鹿が伝染うつると思われてるんですよ」

 冗談かと思って私は笑ったけれど、ルームミラー越しに見えた綾地の表情は真剣そのものだった。

「そ、それに。私は運転手の仕事が災難だなんて思っていません。私、頭が良くないからあちこちで採用断られて、それでも社長さんは私を拾って仕事をくれて。本当に感謝しています」

 あのクソ親父に感謝? それって、マンションを与えてもらっても礼の一つも言わない私への当てつけなの?

 内面の暗い怒りを押し殺すと、私は彼女に意地悪な笑みを向けた。

「ねえ、綾地。お父様の周りの人は、あなたが美人だからアイジンにして雇っているんだって言ってるけれど。それは本当?」

 交差点を曲がりかけた車の挙動が、わずかに乱れた。すいませんお嬢様、と前を向いたままフロントガラスに向けて頭を下げた綾地は、慌てて弁解した。

「そんなわけないじゃないですか! お断りしましたよ、もちろん」

 ……本当に言ったのか、相変わらずサイテーな父親だ。

「でも、やっぱり優しいですよ。社長さんは」

 能天気な彼女の口調に、私は軽蔑を通り越して呆れた。

「は。あんた何言ってんの」

「私が嫌だと言ったら、そうかあ、と言ってそのまま採用してくれたんですから。拒否られたりしたら、普通は別の人を雇いますよねえ」

 私は足を組み替えると、頬杖をついて窓の外を見た。

「……なるほど。私もあんたの馬鹿が伝染らないように気をつけるわ」

 いつしか窓の外の景色は、高校の正門に変わっていた。後席へと振り向いた綾地は懲りもせず、へへ、と笑った。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様」


 早くに母親を亡くした私は、以後の父の女遊びに愛想をつかして早々に家を出た。いつまでも母に操を立て続けろとまでは言わないけれど、思春期の娘と同居している自宅に愛人を連れ込んでくるのは、さすがに常識がないと思わざるを得なかった。再婚しないのは娘であるお前のためを思ってのことだ、などという勝手な自己弁護に心底ムカついていたこともあった。

 高級マンションの一室と物価高など気にする必要のない生活費、さらには使いきれないほどの遊興費を父にせびってはいたけれど、私には良心の呵責など一切なかったし、むしろ慰謝料として当然の権利とすら思っていた。だから高校に進学するにあたって、運転手付きの車での送迎を提案された時にも、そのあからさまな機嫌取りを私は遠慮なく受け取ったのだった。

「ねえ、梨香子。放課後カラオケ行かない?」

 級友の声で我に返った私は、期待のこもった彼女のまなざしに応えてやった。

「いいわよ。いつもの駅前の店、朝まで貸し切りにしとくから」

「やった、さすが梨香子様! ……あとさ、この前呼んでくれたバンドのメンバーの人たち。もう一回駄目かな?」

「私が呼べば来るわよ、うちのパパがスポンサーだし」

「私、健吾君といい感じになりたいの。お願いします!」

 仕方がないなあと苦笑しつつ、私は勿体ぶった仕草で携帯を取り出す。

「スキャンダルはごめんだからね、その辺りは自己責任でオーケー?」

「もちろん!」

 遊び仲間に囲まれながら校門を出ると、少し先の道路わきに黒塗りのリムジンが停まっているのが見えた。

――ちょっと、梨香子。運転手さん待たせてるんじゃないの?

――うわあ、さっすが。ハンドル握ってるの、女の人? 黒いスーツとか、ちょっとイイよね。

 間の抜けたことに綾地はサイドウィンドウから身を乗り出して、お嬢さまぁ、と呑気に手など振っている。ばつが悪くなった私は、先に行ってて、と級友たちに断りを入れると、小走りに車へと駆け寄った。

「ちょっと、綾地。今日は私、用事があるから」

「ええ。お嬢様、最近毎日寄り道じゃないですか。たまには真っすぐにご帰宅なさらないと」

 やっぱり彼女は本当の馬鹿だ。あんなだだっ広いだけの、待つ人もいない部屋に直帰して、何の楽しいことがあるというのか。綾地のせいではない苛立ちを、私はそのまま彼女にぶつけた。

「毎日ここで待たれるの、迷惑だから。あなた、明日から来なくていいよ」

 綾地は目に見えて狼狽した。脱いでいた白い手袋をぎゅっと握り締める。

「それはできません、これが私の仕事ですから」

「いいじゃない、どこかの駐車場にでも車停めてさぼってれば? 私、あなたの事を誰にも告げ口なんかしないし」

 私の言葉に綾地は顔を上げた。私の知らない、大人の顔だった。

「働かずにお金をもらうのは、よくないことです。私の父も母も、いつもそう言ってました」

 そう言って、ました。過去形。

 ……あんたの事情とか知るか。またしても、親のすねをかじっているだけの私に当てつけて。私はついにかんしゃくを起こした。

「友達に恥ずかしいから顔みせるなって言ってるのよ! 空気読んでよ、この無神経女!」

 綾地は、悲しそうな目を私に向けた。

「……社長さんが頑張ってお仕事してお金をためて、そのお金でお嬢様のために送り迎えをしてあげる事は、そんなに恥ずかしいことですか? 何も悪いことをしているわけではないんです、堂々としていても良いのではありませんか?」

 どうしてこいつはあのクソ親父の肩を持つんだ。本当に優しいんだったら、もっと他にやり方があったんじゃないのか。この女もこの女だ、説教なんてまっぴらごめんだ。

「もううるさい、勝手にすればいいじゃない! 二度と私の前に現れないで!」

 お嬢様、と呼びかける声を背に受けながら、私はリムジンとは逆の方角へと逃げるように走った。


 それからの私は、マンションと学校のそれぞれで裏口を使用することで、綾地と顔を合わせることを避けた。それでもなんとなく気になって、放課後に塀の陰から表をうかがってみると、彼女は車を正門から少し離れた公園の木陰に停めていた。目立つな、と私から怒られたことを気にしているのだろう。そして最終の下校時刻である十八時まで律儀に私を待つと、あきらめたように会社へと戻っていくことを繰り返した。

「今日さ、麻美が都合悪くなって合コン一人足りないんだよね。梨香子、ヘルプ可能?」

「え、アサどうしたの」

「なんかお金がないからって、急にバイト入れたんだって。彼氏にプレゼントする為に私らの予定ブッチするとか、感じ悪くない?」

 お金をもらうために、働く。誰かのことを想いながら。それは、恥ずかしいことでも感じ悪いことでも、なんでもなくて。

「……私、帰る」

 カバンをひっつかんだ私に、級友のつぶやきが聞こえた。

――は? お抱え運転手とか親にもらって、調子乗ってんじゃない?

――いつも金ばらまいて人気取りしているくせに、ノリ悪。

 裏門を出て恐る恐る公園に近づいてみると、綾地はリムジンの横で金網に背中を預けてタバコを吹かしていた。憂鬱そうに正門を眺める彼女の横顔に、私はどきりとしてしまう。

「へえ。綾地、タバコなんか吸うんだ」

 はじかれたように飛び上がった彼女は慌てて携帯灰皿に吸い殻を押し付けると、腰を深く折って頭を下げた。

「す、すいません。お嬢様には決して見せるなって、上の人からきつく注意されていたんですが」

「別にいいわよ。車の中で吸ったってかまわないし」

「とんでもない、お嬢様に匂いがついちゃうじゃないですか。お、お嬢様には、いつも綺麗でいて欲しいんです」

 私よりずっと背の高い彼女が、耳たぶを真っ赤に染めてうつむいている。

「綺麗? 私が?」

 今度ははっきりと顔を上げた綾地が、へへ、と笑った。

「はい。お嬢様は、とても綺麗です」

 ばん、と私はリムジンのドアを乱暴に開けると、驚く彼女をしり目にさっさと乗り込んだ。車内が静かすぎて、自分の鼓動が綾地に聞かれてしまうのではないかと不安になる。呼吸を鎮めるために、私はでたらめな言葉を並べた。

「ねえ綾地、私夕食にデリバリー頼むの飽きちゃった。二丁目のバーガーショップに寄ってくれない?」

 慌ただしくシートベルトを着けていた彼女が、驚いて振り返る。

「わ、私がいうのは変ですけれど。お一人暮らしだったらなおさら、もう少しきちんとしたものをお食べになったほうが」

 ただの運転手の癖に越権行為だぞ、それは。余裕を取り戻した私は、備え付けの冷蔵庫からカフェイン増し増しのエナジードリンクを取り出して振ってみせた。

「いいじゃない、たまには。それともひょっとすると、あなたの育ちの悪さが伝染ったのかもね」

 綾地は再び顔を赤くしたけれど、私と共犯者になれることが嬉しかったのかもしれない。出発しますよ、と威勢よく宣言して前に向き直ると、湖畔から漕ぎ出すような滑らかさでリムジンを発進させた。彼女が作り出す心地よい加速度に、私は眠気を誘われて目を閉じる。

 ふわり、とタバコの香りが鼻先に揺れた。


 それからほどなくして、ニュースのトップ面に父の名前が頻繁に出るようになった。ハイニンとかオウリョウとかいうなじみのない単語に交じる解任とか賠償という言葉は、高校生である私にもずしんと重く響いた。

 もとより数か月は顔を合わせることのなかった私と父ではあったけれど、事件が起きた後に電話で話したのは一度きりだった。マンションの名義は私になっているから、将来どうなるかは分からないけれど、当面は差し押さえられる心配はないこと。父の口座は凍結されているので、私への仕送りはしばらく難しくなること。早口でこまごまとしたことを伝えられた後のわずかな沈黙をついて、私は一方的に通話を切った。父の口から、謝罪の言葉が出そうな気がしたから。

 次の日。朝食代わりにクッキーを一枚だけかじってマンションの玄関ホールを出ると、いつものように綾地が待っていた。

「お、おはようございます。お嬢様」

 いつになく緊張した彼女の声音で、私はこのリムジンとも今日限りであることを察した。彼女には何の落ち度もない、クソ親父の代りにせめて私が謝るのが筋というものだろう。

「ゴメンね。仕事、クビになったんでしょう?」

 一瞬顔をこわばらせた綾地が、すぐにへへ、と立ち直ったのを見て、私は何だか自分がひどくちっぽけに思えた。

「社長さんのせいじゃないですよお。会社を立て直さなきゃならないのに無駄な社員を雇っている余裕はない、って上の人に言われまして。ですよねーって感じです」

 無駄、なはずがない。クソ親父の不器用な愛情も、彼女の仕事に対する実直さも、何より綾地に対する私の憧れも。散々彼女に馬鹿だと言ってきたくせに、お別れの今になって初めて気付くなんて、私の方がよほど大馬鹿だ。

 さあ急ぎましょう、遅刻しますよ、と私を促すと、朝の陽光を背にして綾地は車を走らせ始めた。やがて遠くのシグナルが赤に変わり、減速する車内がゆっくりと静寂に包まれていく。

「お嬢様。高校、やめてはだめですよ」

 私は肩をびくりと震わせた。

「……何よ綾地。変なこと言って」

「女子高生でいられるのって、人生で一度きりなんですよ? 頑張って卒業して、社長さんを安心させてあげてください」

 やはり彼女は、ハンドルに向かってへへ、と笑った。

「私には、出来ませんでしたから」

「……それは、あんたの都合でしょ」

「そうですねえ、ちょっとやんちゃし過ぎました。だからお嬢様は」

 道路わきの歩行者信号が点滅し始める。それを横目で確認した綾地は、背を向けたまま早口で言った。

「私の憧れなんです」

 私の中の時が止まった。加速度はもういらない。あの信号さえ青にならなければ、私たちはずっとこのまま。

 やんわりと拒絶されるように、背中がシートバックへと押し付けられた。車を再始動させた綾地は、憎らしいほど優しく私を目的地へと導いていく。やがてリムジンを正門近くの路側帯に横付けした彼女は、先に降りて私のために後席のドアを開けた。すでに学校中の生徒のうわさになっているのだろう、私たちをわらう声がそこかしこから聞こえてきたが、そんなことは今となってはどうでも良かった。

「綾地。あんたはこれからどうするの」

「とにもかくにも、まずは新しい仕事を探さないとですね。お金がないと始まりませんから」

「そうだね、私も心を入れ替えてバイトしなきゃかな。残りのお金なんて、きっとあっという間に無くなるだろうし」

「大丈夫です。お嬢様には、社長さんがついていますから」

 ふん、と照れ隠しに鼻で笑うと、私は彼女に背中を向けた。

「それじゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃいませ、お嬢様」

 未練だと思いつつ振り返ると、生真面目に綾地は、その黒服姿をいつまでも折り曲げ続けていた。


 自業自得ではあったけれど、学校にはもはや私の居場所はなかった。そこそこあった蓄えは砂時計の砂のように静かに、しかし確実に目減りしていった。綾地に宣言したとおりにコンビニやファミレスでのアルバイトを試みたものの、絶望的に世間知らずだった私は、店主に早々に見切りをつけられては転職することを繰り返していた。

 蓄積していく疲労で遅刻や居眠りは増えたけれど、石にかじりつくようにして成績だけは何とかキープしていた。クソ親父はともかく、綾地にだけは卒業証書を見せてやりたかった。馬鹿な話だ、彼女にとって私はただの飯のタネ、それ以上でもそれ以下でもなかったというのに。金の切れ目が縁の切れ目、それが証拠に私は彼女の連絡先すら知らないのだ。

 それでも私は、向かい風にあえて顔をさらしながら登校を続けた。綾地の憧れを裏切りたくない、それはまったくただの意地だった。


――あれ、梨香子じゃない? たまにはパーティに顔出しなよ。

――ダメダメ、週六でバイト入れてる子を誘っちゃ気の毒じゃない。

 正門の近くで声を掛けられた私は、波風を立てまいと頭を下げてその傍らを通り過ぎようとする。やらなければならないことがはっきりと見えている今では、こうした小さな我慢も私は覚えた。

――ちょ、シカト? いつまで金持ち気取ってんのよ。

――犯罪者の娘のくせに、何食わぬ顔して学校来て。普通退学もんでしょ、うざ。

 何といわれようと、私は絶対に学校をやめない、やめるわけにはいかない。

――運転手にまで逃げられて徒歩通学とか、ダサくね?

 ……誰が、逃げたっていうの。彼女は仕事を放り出して逃げるような人じゃない。お前らなんかに、綾地の何がわかるっていうの。

 振り向いてカバンを叩きつけようとした私の手を、誰かが背後からつかんだ。間に割って入った黒いスーツの背中が、私の姿を同級生たちから隠す。

「こんにちは。お嬢様のご学友の方々ですか?」

 奴らが息をのむのが分かった。むろん私も。声の主は低く笑うと、腰をかがめて相手を見下ろした。

「あたしの経験から言って、ダチかって聞かれて即答できないんじゃ、そいつはダチじゃないんだよなあ。……あたしのお嬢の前から、今すぐ消えな」

 ただでさえ背の高い彼女の圧倒的な威圧感に恐れをなして、私に難癖をつけてきた同級生たちはほうほうの体で退散していった。ふう、と息をついた黒服の女性は、振り向いてへへ、と笑った。

「困りました。育ちが悪くてやんちゃなところをお嬢様には見せちゃいけないって、社長さんにきつく釘を刺されていたんですけれど」

 私は目の前にいる綾地の胸に飛び込んだ。どこかで黄色い声が上がったような気がしたけれど、すでに私は他人の好奇の視線には慣れっこだった。

「どこで、何してたのよ。あんたが学校行けっていうから、私は馬鹿正直にあんたの言いつけを守ってたのに」

 やり場に困って両手をわたわたと泳がせながら、綾地は弁解を試みた。

「言ったじゃないですか、新しい仕事を探してたんですよう。少しお金が貯まってからじゃないと、お嬢様に改めてご挨拶できないなと思って」

 彼女の腰に手を回したまま、私は顔を上げた。

「え、お金が貯まるまで私に会うのを避けてたの? なんで?」

 綾地は、笑って公園の方角を指さした。

「あれ、見えます? 昔の知り合いに頼み込んで、格安で譲ってもらったんですよ」

 そちらに視線をやって、私は大きく目を見開いた。巨大なエンジンにおまけのように車輪がついている、といった風情のバカでかいバイクが、例の木陰に停めてあった。

「マフラー替えてスプレーで塗装したもっと派手な奴もあったんですけれど、お嬢様は目立つのがお好きではなさそうでしたから、あのドノーマルな奴にしてみました。どうでしょう?」

 どうでしょう、と言われても、外観とかそういう問題じゃない。ある意味、以前乗っていたリムジンよりもはるかに目立っている。知り合いって綾地、あんた昔は何やってたのよ。

 絶句している私を、感動して声も出ないのだと勘違いしたのかもしれない。綾地は得意そうに胸を張ると、私の手を強引に引っ張る。

「ちょっと、どこいくの」

「決まってるじゃないですか、ご自宅までお送りさせて頂くんですよ」

 そう言って彼女は半ば身体を抱えるようにして私を後席に押し上げると、シールド付きのヘルメットを手渡した。

「メットはかぶってくださいね。私、昔パクられたことがあるんで。捕まるとちょっとうるさいことになるんですよ」

 青ざめた私に向けてにかっと笑うと、彼女自身はフルフェイスのヘルメットをかぶって、ひらりとシートにまたがった。黒スーツの長身女が大型バイクに乗り込んだ姿は実に様になっているけれど、それにしても。

「ちょっと待ってよ。綾地はもう、私の運転手じゃないんだよ? あんたに払えるお金だって持ってない、本当に全然ない」

「私は、お嬢様からお金をもらうつもりはありませんよ。お金をもらわないという事は」

 振り向いた綾地は、こつん、とヘルメット同士を触れさせた。

「これは仕事じゃない、ってことです」

 馬鹿、と私が言う間もなく彼女はキーを回してスタートボタンを押した。とたんに小刻みな振動と腹に伝わる重低音が私たちを揺さぶり始める。慌ててしがみついた彼女のスーツからは、懐かしいタバコの香り。クラッチレバーを少しずつ離すことで動き始めたバイクは、綾地の絶妙なアクセルワークで爆発的にスピードを上げていった。

 私たちをとりまく景色だけが変わり、目の前の未来がまたたく間に過去へと飛ばされていく。それでも、と私は瞳を凝らして前方を見つめた。速すぎる流れの中で、私たちのタンデムツーリングは始まったばかり。

 蒼天に響き渡るエキゾーストノート、はためくスカート。渦巻く向かい風を割いて、ハンドルを握る綾地が笑い声を上げた。

「お嬢様ぁ! 明日の朝は、いつお迎えに上がったらいいですかぁ!」

「いつも通り、八時ぃ!」


 好きなのは、加速度。彼女はいつでも、私に前進する力を与えてくれる。

 ほら。目の前の信号が青に変われば、今すぐにでも――



 ―― 了 ――

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マイ・フェイバリット・アクセラレーション 諏訪野 滋 @suwano_s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画