黒い天使の救済

宵月乃 雪白

黒い天使

 なかなか仕事が終わらない。残業だって何日も何日もしている。泊まり込みだって納期が間に合わない今、当たり前になっていた。誰かがミスをした、仕事が遅い、繁忙期。そんな単純なことだったらどれほどよかったか。

 終わりの見えない仕事の束の間の休憩。ぐちゃぐちゃのデスクから飛び出し、タバコを吸いに一人喫煙所があるバルコニーへ向かう。

 人気のない長い廊下を進み、重たいバルコニーへの扉を開ける。

 扉を開けた勢いで突風の如く吹いた風は一瞬にして、そよそよとなびくようになり動かしっぱなしの頭を冷やすにはちょうどいい柔らかさだった。

 扉を進んで真っ直ぐ、薄汚れたベンチに座ることなく俺は立ったままタバコを吸うことにする。

 残りわずかしかないタバコ。箱を振ればカラカラと音を立て、本数が少ないことをわざわざ知らせてくれる。

 その一本を口に、しわしわの胸ポケットにタバコと一緒にしまってある黒色のライターを取り出し、火をつける。

「疲れてるねぇ」

 会社の状況に反し、甲高く鼻歌でも歌い出しそうな、いつもの声が上から降って耳を通して頭に届く。

「まぁ。仕方ないからね」

「ンフフ。楽にしてあげよっか?」

 そう言うと腰をかけている柵が、小さな人差し指の動きと同時に少し揺れ動く。悪戯をする子供のような無邪気な笑み。

 確かにこの黒い天使のような羽のついた者にとって、さっきの魔法のようなものはただの悪戯に過ぎないのだろう。だけど俺ら人間からしたら、悪戯に人の命を天秤にかけるのは悪戯のはんちゅうを超え、してはいけない人殺しの領域なのだ。

 この目に見えない不思議を初めて前にしたとき、どうしてか怖くはなかった。『当たり前』という言葉が恐怖の代わりに降ってきた。いずれ来る寿命が今来た、ただそれだけのことなのだと。

 だからなのか、この黒い天使は面白くなかったらしい。どれだけ肉体、精神が悲鳴をあげていても自ら死を望まない俺と言う人間が。

 この黒い天使は助けを求められることに異様なほど執着している。『助けて』『連れて行って』その言葉がないと生きていけないと言うほどに、その救済を求める声をずっと。

「いいよ。俺は」

「あっそ。でも待ってるから」

 暗闇の中、人工の光で溢れているビルを背景にゆっくりと上下する漆黒の羽と嫌と言うほど見た何か確信に近い、期待を持った含みのある笑みが瞼に焼きつく。

「お兄さんが、楽にしてって言うまでずーーーっと」

 見かけによらず、大きな口の隙間から見える鋭い歯が、光に照らされ鈍く光って見える。

 どんな状況に置かれてもその言葉を吐かない俺が、その言葉を吐く瞬間を、大きな鎌を持っている黒い者のようにずっと待っている。

「それは構わないよ。でも他のやつを何十人も連れてくのは違うんじゃない?」

「なんのことぉ?」

 問いただすのもめんどくさい。知っているくせに知らんぷりする黒い天使も。この忙しさの原因が黒い天使による、俺からの救済の声が欲しいためだと分かっていても、仕事を辞めず変わらず生きることを選択している俺自身も。

「ねぇ! また明日も来る?」

 小さな細長い筒に詰められた合法薬物の寿命が終わりを迎え、銀の灰皿にお賽銭でも入れるかのような手つきで捨てる。

「来るよ。仕事がある限り」

 この状況が俺のせいだと分かっていても俺はいつも通り過ごす。同僚を先輩を後輩の死すら悼むこともせず、『忙しい』の一言で責任を転換し、自ら死を望むようなこともしない。

「やった! 待ってるね」

 人気のないビルのとあるバルコニーで子供の笑い声が響いている。仕事中もずっと、いつも見ているよと囁くようにずっと聞こえてる。

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