【長編】紬屋の縁結び 〜朱い糸の付喪神〜
浅沼まど
序章『縁の視える少女』
第1話 縁の視える少女
人と人の間には、糸が視える。赤い糸。金色の糸。灰色の糸。
――誰にでも
それが「普通ではない」と知ったのは、母に
そして——その力が〝仕事〟になると知ったのは、祖母が死んだ後のことだった。
◇
雨に濡れた交差点で、
信号待ちの人混み。
向かいから歩いてくる若いカップル。二人の間を、鮮やかな赤い糸が繋いでいる。女性の表情は険しく、男性は困ったように視線を泳がせている。
でも、糸は揺るがない。二人の心臓から伸びた赤い糸は、雨粒をすり抜けて、しっかりと、固く、結ばれている。
——大丈夫。あの二人は別れない。
詩織にはわかる。糸が視えるから。
隣を通り過ぎる
その後ろを歩くサラリーマンの二人組には、温かな
談笑しながら歩く女子高生たちの間には、何本もの糸が複雑に絡み合っている。橙、桃色、白——友情、淡い好意、生まれたばかりの
そして——灰色の糸も、ある。電話をしながら歩く中年の男性。その背中から伸びる糸は、
でも、もうすぐ——その縁は、終わる。
信号が青に変わった。人の波が動き出す。
視たくない。 でも、視えてしまう。
目を閉じても、
物心ついた時から、ずっとそうだった。
◇
五歳の冬。
詩織は関東の小さなマンションで暮らしていた。
父と、母と、三人で。
当時の
だから——言ってしまった。
「ねえ、ママ」
リビングで洗濯物を
「ママとパパの間の糸ね、最近、灰色になってきてるよ」
母の手が、止まった。
「前はね、金色でキラキラしてたのに。最近どんどん暗くなって、細くなってて——」
「なに言ってるの」
母の声は、低かった。
幼い
「糸だよ。ママとパパを繋いでる糸。
「やめなさい」
「でも、本当に——」
「嘘をつくんじゃないの!」
気づいた時には、
叩かれた。母に。
痛みより先に、
目の前の母は、鬼のような顔をしていた。見たことのない表情だった。
「お父さんとお母さんがうまくいってないって、誰かに聞いたの? どこでそんな話を——」
「ち、ちがうよ、
「いい加減にしなさいっ!」
また、叩かれた。
今度は涙が出た。頬の痛みではない。母の目が、こわかった。信じてもらえない。自分の言葉が、届かない。それが、何よりも——痛かった。
「変な嘘をついて気を引こうとしないで! お母さん、そういうの大嫌い!」
母はそう言い捨てて、リビングを出ていった。
嘘じゃない。嘘なんかじゃないのに。
その日から、両親の間の糸はさらに色を失っていった。
詩織は何も言えなかった。言えば、また叩かれる。また、あの目で見られる。
半年後、両親は離婚した。
でも、それを証明してくれる人は、どこにもいなかった。
◇
それから、
縁が視えること。糸が視えること。それを口にすれば、人は離れていく。
母は再婚し、新しい家庭を作った。
父も再婚した。新しい子供が生まれたと、風の
――そして、
叔母の家、伯父の家、遠い親戚の家。どこに行っても、長くは続かなかった。
「あの子、なんか変よね」
「じっと宙を見つめてることがあるでしょう? 気味が悪くて」
「何考えてるかわからないのよね」
変な子。気味の悪い子。何を考えているかわからない子。
深く関わらなければ、傷つかない。何も話さなければ、嘘つきと呼ばれない。
心を閉ざせば——少なくとも、これ以上は壊れない。
◇
転機は、中学二年の春だった。
北陸の小さな町、
――
詩織の祖母は、『
白髪を簡素にまとめ、古い着物を普段着として着こなす、背筋の伸びた人だった。
最初、
――どうせ同じだ。どうせまた「変な子」と言われる。
そう思って、必要最低限のことしか話さなかった。
引き取られて三日目の夜。夕食の後、祖母は
「
六月の夜風が、庭の青葉を揺らしていた。
詩織は黙ったまま、祖母の隣に座った。
「お前に視えているものは——」
祖母は、庭を見つめたまま言った。
「——嘘じゃないよ」
「……っ」
「人と人を繋ぐ糸。赤や金や、灰色のもの。視えているんだろう?」
「どう、して」
「私にも、昔は視えていたからね」
祖母は懐かしそうに目を細めた。
「年を取って、だいぶ視えなくなったけれど。お前の目は、私の若い頃によく似ている」
「お前の目は、特別なんだよ」
祖母の
「視えてしまうものは、仕方がない。無理に隠すことはないし、恥じることでもない。——ただし、誰にでも話していいことでもないけれどね」
「でも、覚えておいで。その目は、呪いじゃない」
祖母の声は、静かで、温かかった。
「いつか、きっと——お前の視る力が、誰かを救う日が来る」
その夜、
◇
——それから、五年が過ぎた。
でも——その祖母も、もういない。
一週間前、大学で講義を受けている最中に電話が来た。
祖母の知人だという男性からだった。
『
その瞬間から、
◇
北陸へ向かう特急列車の中、詩織は窓の外を見つめていた。
雨に煙る景色が、後ろへ後ろへと流れていく。
車内にも、何本かの糸が視える。
離れた席に座る老夫婦を繋ぐ、年月を重ねて深みを増した赤い糸。
向かいのボックス席で眠る親子を繋ぐ、
ここから、誰かに向かって伸びる糸は——視えない。
「自分の縁は視えない」。それが、この目のルールだった。
でも、わかっている。
父との縁は、とうに薄れている。母との縁は、
唯一、太く、確かに繋がっていた糸——祖母との縁が、断ち切られた。
私を繋ぐ糸は、もう——。
『いつか、きっと——お前の視る力が、誰かを救う日が来る』
祖母の声が、耳の奥で響いた。
「おばあちゃん……」
「私、これからどうすればいいの……?」
答えはない。窓の外で、
祖母は、何か言い残していたのだろうか。
「
でも、詩織は知っている。
紬屋の奥には、古い蔵がある。
祖母は生前、その蔵について、一度だけこう言った。
『あの蔵は、まだ開けちゃいけないよ』
「まだ」。そう言っていた。
「開けてはいけない」ではなく——「まだ」、と。
それは、いつか開ける時が来るという意味だったのだろうか。
それとも——
列車が、トンネルに入った。 窓の外が、真っ暗になる。
疲れて、強張って、何の表情も浮かべていない顔。
おばあちゃん。私に、何を遺そうとしていたの。
◇
そのとき——詩織の耳に、何かが聞こえた気がした。
——待っていた。
低く、静かな声。男の声のようだった。
でも、誰もいない。車内の乗客は皆、自分のことに集中している。眠っている人、本を読んでいる人、スマートフォンを見ている人——詩織に話しかけた者など、どこにもいない。
空耳だろうか。
——ようやく、来たか。
また、聞こえた。今度ははっきりと。低く、どこか心地よい声。耳の奥に、直接響いてくるような——。
でも、声の主は——どこにもいない。
何だろう、今の声は。誰の声だろう。
トンネルを抜けた。灰色の空の下、北陸の山々が広がっていた。
列車は速度を落とし始める。
声は、もう聞こえなかった。気のせいだったのだろうか。疲れているせいで、
でも——
予感のようなもの。期待のようなもの。言葉にできない、不思議な感覚。
窓の外で、「
列車が、ホームに滑り込んでいく。
——何かが、始まる。
根拠はなかった。でも、そう感じた。
祖母が遺したもの。蔵の中にあるもの。
そして——あの声。全てが、繋がっているような気がした。
扉が開く。
次の更新予定
【長編】紬屋の縁結び 〜朱い糸の付喪神〜 浅沼まど @Mado_Asanuma
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