【長編】紬屋の縁結び 〜朱い糸の付喪神〜

浅沼まど

序章『縁の視える少女』

第1話 縁の視える少女

 人と人の間には、糸が視える。赤い糸。金色の糸。灰色の糸。

 ――誰にでもえるものだと、幼い頃の私は信じていた。

 それが「普通ではない」と知ったのは、母にほほたたかれた五歳の冬のことだ。

 そして——その力が〝仕事〟になると知ったのは、祖母が死んだ後のことだった。


          ◇


 雨に濡れた交差点で、詩織しおりは息を止めた。

 信号待ちの人混み。かさが作る灰色の花畑。その隙間をうように——無数の糸が、視界をめ尽くしていた。

 向かいから歩いてくる若いカップル。二人の間を、鮮やかな赤い糸が繋いでいる。女性の表情は険しく、男性は困ったように視線を泳がせている。喧嘩けんかの最中なのだろう。

 でも、糸は揺るがない。二人の心臓から伸びた赤い糸は、雨粒をすり抜けて、しっかりと、固く、結ばれている。


——大丈夫。あの二人は別れない。


 詩織にはわかる。糸が視えるから。

 隣を通り過ぎる母娘おやこ。幼い女の子の手を引く、若い母親。二人を繋ぐのは、眩しいほどの金色。血縁の縁。母から子へ、脈々と流れる命の糸。


 その後ろを歩くサラリーマンの二人組には、温かな橙色だいだいいろの糸。職場の友人だろうか。

 談笑しながら歩く女子高生たちの間には、何本もの糸が複雑に絡み合っている。橙、桃色、白——友情、淡い好意、生まれたばかりのえん


 そして——灰色の糸も、ある。電話をしながら歩く中年の男性。その背中から伸びる糸は、色褪いろあせて、ほつれて、今にも千切れそうだった。誰と繋がっているのかはわからない。

 でも、もうすぐ——その縁は、終わる。


 信号が青に変わった。人の波が動き出す。詩織しおりは視線を落とし、足早に歩き出した。

 視たくない。 でも、視えてしまう。

 目を閉じても、まぶたの裏に糸の残像がちらつく。この世界は縁で満ちていて、詩織しおりはその全てを——望んでもいないのに——視せられ続けている。

 物心ついた時から、ずっとそうだった。


          ◇


 五歳の冬。

 詩織は関東の小さなマンションで暮らしていた。

 父と、母と、三人で。

 当時の詩織しおりは、まだ知らなかった。自分の目が「普通ではない」ことを。

 だから——言ってしまった。


「ねえ、ママ」


 リビングで洗濯物をたたんでいた母に、詩織しおりは何気なく声をかけた。


「ママとパパの間の糸ね、最近、灰色になってきてるよ」


 母の手が、止まった。


「前はね、金色でキラキラしてたのに。最近どんどん暗くなって、細くなってて——」

「なに言ってるの」


 母の声は、低かった。

 幼い詩織しおりは首を傾げた。


「糸だよ。ママとパパを繋いでる糸。詩織しおりにはずっと視えてるよ。ねえ、早くしないと切れちゃうよ。だから——」

「やめなさい」

「でも、本当に——」

「嘘をつくんじゃないの!」


 気づいた時には、ほほが熱かった。

 叩かれた。母に。

 痛みより先に、衝撃しょうげきが走った。

 目の前の母は、鬼のような顔をしていた。見たことのない表情だった。


「お父さんとお母さんがうまくいってないって、誰かに聞いたの? どこでそんな話を——」

「ち、ちがうよ、詩織しおりが視たの、糸が——」

「いい加減にしなさいっ!」


 また、叩かれた。

 今度は涙が出た。頬の痛みではない。母の目が、こわかった。信じてもらえない。自分の言葉が、届かない。それが、何よりも——痛かった。


「変な嘘をついて気を引こうとしないで! お母さん、そういうの大嫌い!」


 母はそう言い捨てて、リビングを出ていった。

 詩織しおりはひとり、床に座り込んだまま動けなかった。

 嘘じゃない。嘘なんかじゃないのに。

 その日から、両親の間の糸はさらに色を失っていった。

 詩織は何も言えなかった。言えば、また叩かれる。また、あの目で見られる。   

 半年後、両親は離婚した。

 詩織しおりの『嘘』は、嘘ではなかった。

 でも、それを証明してくれる人は、どこにもいなかった。

 

         ◇

 

 それから、詩織しおりは黙るようになった。

 縁が視えること。糸が視えること。それを口にすれば、人は離れていく。

 母は再婚し、新しい家庭を作った。詩織しおりの居場所は、そこにはなかった。

 父も再婚した。新しい子供が生まれたと、風のうわさで聞いた。

 ――そして、詩織しおりは親戚の間をたらい回しにされた。

 叔母の家、伯父の家、遠い親戚の家。どこに行っても、長くは続かなかった。


「あの子、なんか変よね」

「じっと宙を見つめてることがあるでしょう? 気味が悪くて」

「何考えてるかわからないのよね」


 ささやき声は、いつも詩織の耳に届いた。

 変な子。気味の悪い子。何を考えているかわからない子。

 詩織しおりは少しずつ、人との距離を取ることを覚えた。

 深く関わらなければ、傷つかない。何も話さなければ、嘘つきと呼ばれない。


 心を閉ざせば——少なくとも、これ以上は壊れない。


          ◇


 転機は、中学二年の春だった。

 北陸の小さな町、朱鷺野ときの市。父方の祖母が、詩織しおりを引き取ることになった。


 ――つむぎハナ。


 詩織の祖母は、『紬屋つむぎや』という小さな古道具屋を営む老女だった。

 白髪を簡素にまとめ、古い着物を普段着として着こなす、背筋の伸びた人だった。

 最初、詩織しおりは祖母にも心を開かなかった。


 ――どうせ同じだ。どうせまた「変な子」と言われる。


 そう思って、必要最低限のことしか話さなかった。

 引き取られて三日目の夜。夕食の後、祖母は詩織しおりを縁側に呼んだ。


詩織しおり。少し話をしようか」


 六月の夜風が、庭の青葉を揺らしていた。

 詩織は黙ったまま、祖母の隣に座った。


「お前に視えているものは——」


 祖母は、庭を見つめたまま言った。


「——嘘じゃないよ」


 詩織しおりの心臓が、跳ねた。


「……っ」

「人と人を繋ぐ糸。赤や金や、灰色のもの。視えているんだろう?」


 詩織しおりは祖母を見つめた。祖母は穏やかに微笑んでいた。


「どう、して」

「私にも、昔は視えていたからね」


 祖母は懐かしそうに目を細めた。


「年を取って、だいぶ視えなくなったけれど。お前の目は、私の若い頃によく似ている」


 詩織しおりの視界が、にじんだ。


「お前の目は、特別なんだよ」


 祖母のしわだらけの手が、詩織しおりの頭にそっと触れた。


「視えてしまうものは、仕方がない。無理に隠すことはないし、恥じることでもない。——ただし、誰にでも話していいことでもないけれどね」


 詩織しおりくちびるんだ。涙が止まらなかった。


「でも、覚えておいで。その目は、呪いじゃない」


 祖母の声は、静かで、温かかった。


「いつか、きっと——お前の視る力が、誰かを救う日が来る」


 その夜、詩織しおりは生まれて初めて、声を上げて泣いた。


          ◇


 ——それから、五年が過ぎた。

 詩織しおりは十九歳になっていた。市外の大学に通いながらも、週末は必ず紬屋つむぎやに帰った。祖母のれる少し濃いほうじ茶。古い町家の、たたみと木の匂い。それが、詩織の『帰る場所』だった。

 でも——その祖母も、もういない。

 一週間前、大学で講義を受けている最中に電話が来た。

 祖母の知人だという男性からだった。


詩織しおりちゃん。落ち着いて聞いてくれ。——ハナさんが、亡くなった』


 その瞬間から、詩織しおりの時間は止まっていた。


          ◇


 北陸へ向かう特急列車の中、詩織は窓の外を見つめていた。

 雨に煙る景色が、後ろへ後ろへと流れていく。

 車内にも、何本かの糸が視える。

 離れた席に座る老夫婦を繋ぐ、年月を重ねて深みを増した赤い糸。

 向かいのボックス席で眠る親子を繋ぐ、まぶしい金の糸。

 詩織しおりは、自分の手のひらを見下ろした。

 ここから、誰かに向かって伸びる糸は——視えない。


 「自分の縁は視えない」。それが、この目のルールだった。


 でも、わかっている。

 父との縁は、とうに薄れている。母との縁は、詩織しおりの方から目を背けている。

 唯一、太く、確かに繋がっていた糸——祖母との縁が、断ち切られた。

 私を繋ぐ糸は、もう——。


『いつか、きっと——お前の視る力が、誰かを救う日が来る』


 祖母の声が、耳の奥で響いた。


「おばあちゃん……」


 詩織しおりは小さく呟いた。


「私、これからどうすればいいの……?」


 答えはない。窓の外で、雨脚あまあしが強まっていた。

 祖母は、何か言い残していたのだろうか。

 「紬屋つむぎやを継いでほしい」とか、「蔵を開けてほしい」とか——そういう話は、一度も聞いたことがない。聞かされていない。

 でも、詩織は知っている。

 紬屋の奥には、古い蔵がある。

 祖母は生前、その蔵について、一度だけこう言った。


『あの蔵は、まだ開けちゃいけないよ』


 「まだ」。そう言っていた。

 「開けてはいけない」ではなく——「まだ」、と。

 それは、いつか開ける時が来るという意味だったのだろうか。

 それとも——

 列車が、トンネルに入った。 窓の外が、真っ暗になる。

 詩織しおりはガラスに映った自分の顔を見つめた。

 疲れて、強張って、何の表情も浮かべていない顔。


 おばあちゃん。私に、何を遺そうとしていたの。


          ◇


 そのとき——詩織の耳に、何かが聞こえた気がした。

 

 ——待っていた。

 

 低く、静かな声。男の声のようだった。

 詩織しおりは顔を上げて、周囲を見回した。

 でも、誰もいない。車内の乗客は皆、自分のことに集中している。眠っている人、本を読んでいる人、スマートフォンを見ている人——詩織に話しかけた者など、どこにもいない。

 空耳だろうか。詩織しおりは首を傾げた。


 ——ようやく、来たか。


 また、聞こえた。今度ははっきりと。低く、どこか心地よい声。耳の奥に、直接響いてくるような——。

 でも、声の主は——どこにもいない。

 詩織しおりの心臓が、大きく跳ねた。

 何だろう、今の声は。誰の声だろう。

 トンネルを抜けた。灰色の空の下、北陸の山々が広がっていた。

 列車は速度を落とし始める。

 声は、もう聞こえなかった。気のせいだったのだろうか。疲れているせいで、幻聴げんちょうでも聞いたのだろうか。

 でも——詩織しおりの胸の奥で、何かがうずいていた。

 予感のようなもの。期待のようなもの。言葉にできない、不思議な感覚。

 窓の外で、「朱鷺野ときの」と書かれた駅名標が流れていく。

 列車が、ホームに滑り込んでいく。

 詩織しおりは立ち上がり、荷物を手に取った。


 ——何かが、始まる。


 根拠はなかった。でも、そう感じた。

 祖母が遺したもの。蔵の中にあるもの。

 そして——あの声。全てが、繋がっているような気がした。

 扉が開く。

 詩織しおりは、雨上がりのホームに降り立った。

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