純文学短編小説・​『白い跡』

銀 護力(しろがね もりよし)

『白い跡』全編

 キュッ、キュッ。

 スポンジがプラスチックを擦る音が、静まり返った台所に響く。

 俺はコンビニ弁当の空き容器を洗っていた。こびりついた油汚れを洗剤で完全に落とし、水気を丁寧に拭き取る。そして、それをシンクの下にある「専用のゴミ袋」へと重ね入れた。

 四十五リットルの半透明な袋の中には、同じような透明の蓋や、黒い底上げされた容器が、地層のように整然と積み重なっている。

 

 ふと、二十年前の湯気を思い出す。

「ねえ、いけてる?」

 それが彼女の口癖だった。外食を嫌った彼女は、狭いアパートのキッチンで毎日包丁を握った。俺が一口目を口に運ぶと、彼女は必ず身を乗り出してそう聞いた。

「美味しいけど、まだ一口目だよ。ゆっくり味わわせてくれ」

 俺が苦笑して答えるまでが、二人の幸福な儀式だった。

 あれから二十年。

 今の俺が口にするものに、感想を求める相手はいない。俺はこの一週間、ただ生きて、何かを摂取し、プラスチックの抜け殻だけをこうして積み上げている。袋がいっぱいになるその時まで、俺はこれを捨てることができない。


 袋の口を縛りながら、視線を上げる。

 窓の外には、残酷なほど真っ青な空と、ふざけたように真っ白な積乱雲が居座っている。

 西日が肌を刺す。エアコンは設定温度を無視して低い唸り声を上げ、生暖かい風を吐き出していた。


 今日は会社を休んでいる。

 五十一歳。バブル入社組の生き残り。上場企業の課長代理という肩書きはあるが、出世コースからはとうに外れた。部下からは空気のように扱われ、俺もまた、それを甘受して淡々と時間を切り売りしている。

 だが、今日だけは違う。

 八月某日。妻が逝った、その日だ。

 二十八歳で結婚し、たった三年で終わってしまった生活。彼女がいなくなってからの歳月の方が、もう何倍も長くなってしまった。


 テーブルの上には、気の抜けたサイダー。ぬるく、甘ったるい液体。

 ベランダに目をやれば、蝉の死骸が転がっている――かと思えば、まだ生にしがみつき、ジジ、と擦れた鳴き声を放ってのたうち回っている。

 まだ死ねないのか。それとも、まだ生きていたいのか。

 俺にはわからない。ただ、その見苦しさが、会社にしがみつく自分の姿と重なって吐き気がした。


 ふと、部屋の隅、古雑誌の陰で眠る木製のスケッチ箱に目が止まった。埃の層が、二十年という沈黙を物語っていた。

 あの日、俺はこの箱を封印した。

 白い帽子に、白いワンピース。眩しいほどの夏の空を背にして笑う彼女を、キャンバスに閉じ込めようとした。だが、彼女は画になる前に逝った。

 俺は今日まで、その箱を開ける勇気も、捨てる勇気もなかった。


 だが、今日は二十回忌だ。

 供養、という言葉が頭をよぎる。あの時描けなかった「青」を、一枚の紙の上に再現してみるのも悪くないかもしれない。そうすれば、この、コンビニ弁当の殻を積み上げるだけの日々に、何かしらの決着がつく気がした。


 俺は吸い寄せられるように箱の留め金を外した。「パチン」という乾いた音が、湿った部屋に場違いに響く。

 蓋を開けると、饐(す)えた油の匂いが鼻をついた。それは記憶の中のアトリエの匂いではなく、時間の死骸の匂いだった。


 中には、ひび割れた絵の具たちが無造作に転がっている。俺はその中から「コバルトブルー」のチューブを拾い上げる。

 あの日の空の色。彼女の背後に広がっていた、永遠のような青。

 キャップは固着して動かない。俺は指が白くなるほど力を込め、なかばねじ切るようにしてそれを回した。


 チューブの口から出てきたのは、鮮やかな青ではなかった。

 透明な油と、ボソボソになった顔料が分離した、醜い泥のような何か。

 俺は息を呑んだ。

 それでも、パレットの上で、毛先の固まった絵筆を使い、強引にそれを混ぜ合わせた。机の上のコピー用紙に、祈るように塗りつける。

 頼む。あの頃の空が、一瞬でも蘇ってくれれば。俺の止まった時間が、また動き出すかもしれない。


 しかし、紙の上に広がったのは、油の染みが滲んだだけの、濁った青い汚点だった。

 二十年。

 その歳月は、思い出を美化させるどころか、物理的に、化学的に、ただ腐敗させていただけだった。妻の記憶も、俺の若さも、この絵の具と同じだ。分離し、濁り、もう二度と混ざり合わない。


 ドウン、ドウン、と腹に響く重低音が窓ガラスを震わせた。

 通りを見下ろせば、改造した車が走り去っていくところだった。窓から突き出された若い腕。助手席には派手な女。そして、下校中の小学生たちの甲高い笑い声。

 世界はあんなにも鮮やかで、うるさく、生きている。俺ひとりを置き去りにして。


 ドス黒い何かが、胸の奥からせり上がった。

 右手に握りしめたパレットナイフ。

 こいつを持って外へ飛び出し、あの車のタイヤを、あるいはあの笑い声を上げている喉を、切り裂いてやろうか。

 そうすれば、俺は犯罪者だ。新聞に載り、会社を解雇され、この退屈な日常は音を立てて崩壊するだろう。

 破滅。

 それも悪くない。このまま腐っていくよりは、いっそ派手に散ってしまいたい。


 俺はパレットナイフを握り直し、左の手首に切っ先を突き立てた。予行演習のように。

 強く、強く押し付ける。皮膚が悲鳴を上げ、骨がきしむほどに。

 だが。

 いつまで経っても、血は流れなかった。

 刃のついていないヘラのようなナイフ。こんなものでは、誰も殺せない。車のタイヤひとつパンクさせられない。

 俺には世界を壊す力などないし、そもそも、破滅に向かって走り出すだけのエネルギーさえ残っていないのだ。


 ナイフを離す。

 そこには、赤く血が滲む傷口などはなく、情けないほど頼りない、へこんだ跡があるだけだった。


 苛立ち紛れに、スケッチ箱に絵筆とパレット、役立たずのナイフ、そして分離したチューブの残骸を放りこんで、蓋を閉めた。

 パチン。

 その音が、俺を現実に引き戻す。


 タバコが切れていたことに気づく。

 だが、コンビニへ行ってタバコを買うために、あの暴力的な光と熱の中に飛び出して行く気力など、今の俺にはない。またコンビニ弁当を買って、プラスチックのゴミを増やすのも御免だった。


 フローリングにごろりと横になる。床の硬さと冷たさだけが、唯一の救いだ。

 ふと、左手を目の前にかざしてみる。

 さっきあれほど強く押し付けた手首の痕跡は、血流に合わせて脈打ちながら、もう薄れかけていた。

 痛みもなく、血も流れない。

 そこに残っていたのは、台所に積み上げた透明なゴミの山と同じ、中身のない俺の人生そのもののような、すぐに消えてなくなる白い跡だけだった。


(了)

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