第6話:安全確認の励行、間違いなく不当解雇です
あの事故から、数日が過ぎた。
ギルドの空気は、以前とは少し変わっていた。
いや、正確に言うなら、俺が変えようと仕掛けていた。
「おいおい、なんだよこれ、『クエスト申請前の心得』だァ?」
「いちいち当たり前のこと書いてんじゃねえよ! 俺たちを素人扱いするか!」
朝のギルドロビーに、荒くれた冒険者たちの不満げな声が響く。
大柄な獣人の戦士が牙を剥き、髭を蓄えたドワーフが腕を組んでいる。
受付カウンターの前には人だかりができ、その先頭で男たちが詰め寄っていた。彼らの視線の先にあるのは、壁に貼られた真新しい羊皮紙だ。
1、申請する前に、主要装備(武器・防具)の状態を確認すること。
2、目に見える破損や劣化があれば、修理完了するか代用品を用意するまで申請を停止すること。
3、クエストにはポーション等の回復道具を携行すること。
書いてあることは至極当然の内容で、『出かける前に靴紐を結べ』と言っているようなものだ。
だが、この世界では『自己責任』という言葉が免罪符になり、こうした基本動作がおろそかにされていた。
事故は、慣れと油断の隙間に生まれる。だからこそ、しつこいほどに『当たり前』を可視化する必要があるのだ。
「おい事務員! こんな紙切れ一枚で、俺たちに説教する気か?」
大剣を背負った男が、受付カウンターに身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
だが、俺は動じない。
静かに足元から『ある物』を取り出し、ドン、と貼り紙の下の台に置いた。
「……なんだ、これ?」
「先日の事故で折れた剣です」
根元からポッキリと折れた、赤錆びた直剣。
その断面を見せつけるように、俺は淡々と告げた。
「持ち主のCランクパーティの冒険者は、これが折れたせいで体勢を崩し、オークに腹を裂かれました。一命は取り留めましたが、原因は金属疲労の見落としです」
男の視線が、折れた剣に釘付けになる。
言葉よりも雄弁な『死の予兆』が、そこにある。
「一見すると、ただの錆に見えます。しかし、柄の接合部分を見てください。微細な亀裂が入っているのが分かりますか? これは、日々の『当たり前の確認』を怠った結果です」
俺は手元のペンで亀裂を指し示した。
「あなたのその大剣、手入れはいつしました? もしダンジョンの奥深くで、これと同じように折れたら、どうやって生還しますか?」
「そ、それは……」
男が口ごもる。
彼は無意識に、背中の大剣の柄に手を伸ばし、ガチャリと揺すった。不安になったのだろう。
「この貼り紙は、ルールではありません。ただの『問いかけ』です。装備は万全ですか? 回復用ポーションはお持ちですか? ……もし不安なら、今日は鍛冶屋に行くことをお勧めします」
ロビーが静まり返る。
俺の言葉だけではない。俺の背後でオルガが仁王立ちし、無言の圧力を放っているからだ。
そして、列の後ろから、見覚えのある若者が声を上げた。
「……あの時は、たまたまルティアさんがいたから助かったんだ。運が良かっただけだ」
『
「俺みたいになりたくなかったら、確認しとけ。……死ぬよりマシだぞ」
当事者の重い一言に、荒くれ者たちは気まずそうに視線を逸らし、それぞれが自分の武器や鎧を確認し始めた。
「……チッ。確かに、ちょっと刃こぼれしてるな」
「俺も、予備のポーション買っておくか……」
数名が列を離れ、出口へと向かう。
第一関門突破だ。
俺は心の中で安堵のため息をついた。
強制力はない。罰則もない。
ただ『当たり前のこと』を掲示しただけだ。
だが、それだけで意識は変わる。
現代日本の現場で『指差し確認』がなくならないのと同じ理由だ。人間は、言われなければ忘れる生き物だからだ。
いずれは強制力のある点検制度――車検のようなシステムを確立したいものだ。
そのためには目利きの職員が必要になる。
俺が視れば検査できるが、毎回『警告色視』が発動してくれる保証はないからな。
---
それから一ヶ月が経過した。
ゴーンゴーンと、王都に重厚な鐘の音が響き渡る。
時刻は18時。『黄昏時間の鐘』だ。
王都ではこの鐘を定時時間にしている仕事が多いらしく、この冒険者ギルドも例外ではない。
その勤怠システムは意外なほどお役所的で、クエスト申請や査定の受付業務は17時に問答無用でクローズする。そして1時間の締め作業を経て、18時の鐘と共に職員は定時退社する。
窓口や倉庫の職員たちは、鐘が鳴ると同時に帰っていく。
だが、執務室の明かりは消えていない。
逃げ出した前任者たちが残した『業務の負債』は、未だ山のように残っているからだ。
俺とルティアは、遠ざかる笑い声をBGМに、黙々とペンを走らせる。
あの日、俺が導入した『装備状態の自己申告』。その効果は、この一ヶ月でじわじわと、だが確実に現れ始めていた。
申請時に不備を自覚し、渋々修理に出した冒険者が、『ダンジョンで武器が壊れずに済んだ』と感謝して帰ってくる事例。
逆に、掲示を鼻で笑い、根拠のない自信で整備を怠った冒険者が、ダンジョン内で装備トラブルに見舞われ、
明暗を分けたのは、たった一枚の紙が促す『確認』の手間を、惜しんだかどうかだ。
『安全』という目に見えないコストを支払った者だけが、生存という対価を得る。
「……おっ。怪我人の数が減ってきてるな」
静寂を破ったのは、奥のデスクで腕を組んでいたオルガだった。
彼女もまた、ギルド長として決裁書類の山と格闘していたのだ。
俺はコーヒーを啜りながら、彼女の手元にある月次報告書を覗き込んだ。
「ええ。少しずつですが、素材の回収率も向上していますね。装備が万全なら、余裕を持って狩りができるということでしょう」
俺はペン先で数字を追った。
「それと、魔力回復ポーションの消費量が増えていますが、これは携帯を推奨している効果が出ていると見ていいでしょう。いずれは支給品にしたいですね」
「まだ始めたばかりだが、これは期待できそうだな」
「数字は嘘をつきませんからね。安全対策は
俺はしたり顔で語ったが、内心では驚愕していた。
たった一枚の羊皮紙。そこに『当たり前のこと』を書いて貼り出しただけだ。
それだけのことで、ここまで劇的に数字が改善するとは。
現代日本で言うなら、『指差喚呼』のポスター一枚貼っただけで、工場の事故が激減したようなものだ。
逆に言えば、それほどまでに今までの管理体制が『ザル』だったということか。
恐ろしい話だ。今までどれだけの冒険者が、防げるはずの事故で命を落としてきたのか。
やはり、この世界の『安全』に対する意識は低すぎる。
---
その日の夜。
残業の合間に、俺はルティアが淹れてくれたコーヒーを飲んでいた。
窓の外には三つの月が輝いている。
「……ルティアさん。ずっと気になっていたんですが」
ふと、俺は以前からの疑問を口にした。
「あなたほど若くて優秀な人材が、なぜ冒険者を辞めてギルド職員を?」
若くて、というのは余計なセクハラ発言だったかと内心で冷や汗をかきつつ、俺は言葉を続けた。
ダンジョンで見せた、あの鮮やかな止血処置。
あれほどの技術があれば、どこのパーティでも引く手あまたのはずだ。
俺の問いに、ルティアはカップを持つ手を止め、寂しげに笑った。
「……えっと、私、パーティを外されまして……」
「外された?」
「はい。私の
彼女は視線を落とした。
「そのパーティはAランク昇格を目指していまして、もっと効果の高い
「……は?」
俺は思わず、低い声を出してしまった。
役に立たない? 彼女が?
節穴か? いや、節穴というレベルではない。眼球がついているのか疑わしいレベルだ。
彼女の能力は『高性能な空調設備』であり、『予防医療のスペシャリスト』だ。
戦場の環境をコントロールし、そもそも『致命傷を負わせない』『状態を悪化させない』という、リスク管理の最高峰じゃないか。
それを捨てて、
傷ついてから治すのと、傷つかないように管理するのでは、雲泥の差がある。コストパフォーマンスの観点からも、彼女の能力は圧倒的だ。
「……自信をなくしていたところを、オルガさんが誘ってくださったんです。ですから、私なんて……」
「ルティアさん」
俺は彼女の言葉を遮った。
「あなたを捨てた連中は、経営センスが絶望的ですね。倒産確実の優良誤認企業だ」
「えっ?」
「あなたは優秀です。私が保証しますよ」
熱っぽく語る俺に、ルティアは呆気に取られ、やがて嬉しそうに目を細めた。
「……ふふ。カツラギさんにそう言ってもらえると、なんだか自信が湧いてきます」
彼女の笑顔に、俺の胸の奥が少しだけ温かくなった。
---
数日後。
普段、受付カウンターを仕切っている脳筋職員たちが、今日は珍しくほとんど非番だった。
そのため、窓口にはルティアが久々に座っている。
「見てくれよぉルティアちゃん! 俺の剣、研ぎ直したんだぜ! 刃こぼれ一つねえだろ?」
「はい、すごく綺麗です。これならダンジョンでもご安心ですねっ!」
そんな彼女に、一人の冒険者が熱っぽい視線を送り、自慢の装備を見せびらかしている。
これで一体、今日何人目だ。
……しかし、こいつら。
俺が貼り出した『注意書き』に対しては、「いちいち指図するな」「素人扱いするな」と散々文句を垂れていたくせに。
ルティアの前では、その煩わしいはずの『安全確認』を、自ら進んでアピールの材料にしているじゃないか。
ルティアの固有スキル『聖女の慈愛』が、現場の反発心を完全に無効化しているな。
この調子なら、ギルド職員による全品現物チェックを義務化するという、最も冒険者が嫌がる施策を導入したとしても、担当が彼女なら皆喜んで受け入れるんじゃないのか。
不満が噴出しかねない現場を、美女の笑顔という名の『最高の
人件費的にも、リスク管理の観点からも、彼女はコストパフォーマンスを極限まで高めた『戦略的リソース』だな。
なんて、こんな馬鹿げた分析に頭を使える程度には、この世界の理不尽さを忘れさせてくれる、退屈で、安穏とした昼下がり――なのだが。
俺のささやかな平穏は、いつだって唐突に破られる運命にあるらしい。
この安穏な空間に、まるで異物のように割り込んでくる一団が現れた。
カツカツと、足音も高く入ってきたのは、全身を豪華で派手な赤色の装備で固めた5人組だ。
その装備の赤い輝きは、ギルドの中で明らかに浮いていた。
ひと目で金がかかっていると分かる装飾過多な鎧。実用性よりも見栄えを重視したようなデザインだ。
「おい、あれ……『
「Bランク上位の……?」
ざわめきが広がる。
シルバースター? 赤いのに?
俺が心の中でツッコミを入れていると、リーダーらしき金髪の剣士が、カウンターの方へ歩み寄った。
「……ん? もしかして、そこにいるのはルティアか?」
書類整理をしていたルティアの肩が、強ばったように硬直した。
まるで危険を察知した小動物のように、恐る恐る顔を上げ、その声の主を見る。
「ア、アレン……さん……」
「ああ、やっぱりそうだ。そうか、今はギルドの職員をやってたのか」
アレンと呼ばれた男は、値踏みするようにルティアを見下ろした。
その態度は、かつての仲間に対するものではない。
不快な視線。
――こいつらか。
俺は直感した。
ルティアを『役に立たない』と切り捨て、彼女の自信を奪った元凶。経営センス皆無の阿呆どもが、ノコノコとやってきたらしい。
ペンを置き、カウンターの奥から出て、庇うようにルティアの前に立った。
「書類の確認でしたら、すぐに承ります。本日はどのようなご用件でしょうか」
完璧な営業スマイルを顔に貼り付け、言葉は丁寧だが、突き放すような冷たい口調で告げた。
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