第21話

最終章 静寂の章 ― 影は風に還る


 山間の小さな小屋の天井を、夜風がゆっくりと揺らしていた。

 戦が終わった翌朝の空は、驚くほど澄んでいた。

 あれほどの火と血が流れた後だというのに、

 世界は何事もなかったかのように青く、静かだった。


 私は、身体の痛みが消えていることに気づいていた。

 傷が癒えたのではない。

 ただ、もう痛みを感じる必要がなくなったのだ。


 まるで、魂だけが身体から離れつつあるようだった。



■ 刀の記憶


 目を閉じると、遠い記憶がよみがえる。


 私は刀だった。

 鉄を鍛え、火に打たれ、幾多の戦をくぐり抜け、

 長い年月、ただ主を待っていた。


 「お前の主は、きっと現れる。

  その時は、お前は国宝となる」

 鍛冶師が最後に言った言葉を思い出す。


 やがて私は人の姿を得て、

 藤吉郎――いや、のちの秀吉と出会った。


 その男は、小柄で、貧しくて、知恵があって、

 底抜けに明るくて、泣き虫で、優しかった。


 人間の主人ではなかったが、

  私は彼の“夢”のために刃となる道を選んだ。


 秀吉が天下を取り、戦を終わらせると信じたからだ。

 その夢は半ば叶い、半ば破れた。


 それでも私は――誇っていいのだろう。



■ 忠輝との別れ


 小屋の戸が静かに開き、忠輝が姿を見せた。

 彼の甲冑は外され、ただ一人の男として立っていた。


 「……生きておったか」


 私は微笑んだ。


 「生きているのか、死んでいるのか……その境が曖昧なだけです」


 忠輝は近づき、私のそばに膝をついた。


 「お前のおかげで、秀頼殿は生きた。

  豊臣の灯火は完全には絶えなかった」


 私は首を振った。


 「殿が自ら選ばれたのです。

  私はただ……刃として添っただけ」


 忠輝の目が、優しく細められた。


 「それで十分だ。

  ――お前は、最期まで武士だった」


 私は胸の奥が熱くなった。

 もう涙は出ない。

 刀は涙を流すことができないのだ。



■ 風とともに


 外では、山風が木々を揺らしている。

 葉が鳴り、鳥が優しく囀り、

 まるで戦など一度もなかったかのような、穏やかな世界だった。


 私は忠輝に言った。


 「私は、そろそろ行きます。

  刃は、役目を終えれば刀身へ還るものです」


 忠輝は頷いた。


 「行け。風となれ」


 私は目を閉じた。


 胸の奥で何かがほどける音がした。

 重さが消え、痛みが消え、

 五十三年間、人として歩んだすべてが静かに薄れていった。


 そして――

 私は風となった。


 木々の間を抜け、山を越え、

 遠く大坂の空へと流れていく。


 燃え落ちた城跡には、まだ白い煙が漂っている。

 その煙にそっと触れ、私は呟いた。


 「秀吉様……殿……皆……お疲れさまでした」


 風がひときわ強く吹き抜け、

 私は空へ消えた。



■ 余韻 ― 語り継がれる影


 その後、山で一人の男が静かに息絶えたという噂が広まった。

 名もなく、身分もなく、

 ただ不思議と“武士の気品を纏った男”だったと語られる。


 人々は彼をこう呼んだ。


 ――秀吉の影の侍、と。


 だが本当の名を知る者は、もういない。

 刀であった男は、風に還り、

 豊臣の夢とともに静かに眠りについたのだ。

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