第18話

第十八章 紅蓮の章 ― 大阪夏の陣・天王寺口


 夜明け前の空は、血の気を失った鉄のように冷たかった。しかし東の地平にわずかな朱が滲み始めると、その色は次第に濃くなり、やがて天を焦がす火焔の兆しへと変わった。


 天王寺口――運命の地。


 この夏の陣の勝敗は、ここで決まると誰もが知っていた。

 大坂城の命運、豊臣の未来、日本の行く先。すべてがこの一点に集約されていた。



■ 黎明の備え


 真田幸村の赤備えは、夜の闇を押し払いながら整然と並び立ち、その背後からはじっとりと汗をにじませる夏の風が吹き抜けていた。兵は皆、これが最後の戦いになると悟っている。声は少なく、ただ鎧のきしむ音だけが薄明の空気を震わせた。


 幸村はそっと愛馬の鬣を撫で、天王寺の陣前に視線を向けた。


 「今日が、豊臣の最期かもしれぬ……だが、我らはその最期を美しく散らせねばならぬ」


 その言葉は、静かだが火を宿していた。


 一方、徳川方の先鋒を任された松平忠輝は、丘の上から幸村の赤備えを見下ろしていた。視界を紅蓮色に染める朝日が、武将たちの兜を妖しく輝かせる。


 「……あの赤こそが、豊臣の魂なのだろうな」

 忠輝はぽつりと呟いた。


 隣で控える稲葉正成が言った。


 「徳川の世を開くには、今日、あれを討たねばなりませぬ」


 忠輝は頷きながらも、胸中に走るざらりとした感情を押し殺した。


 「わかっている。だが……胸が焼けるようだ」



■ 火蓋 ― 天王寺口の怒号


 午の刻に近づくと、陽は高く昇り、空は白く熱を帯び始めた。

 そして次の瞬間――


 ドォォンッ!


 天王寺口の東側で、鉄砲の一斉射が響いた。

 地鳴りのような音が戦場全体を揺るがし、両軍は一斉に走り出した。


 真田の赤備えが、炎のような塊となって前進する。

 騎馬が地を蹴るたび、砂が爆ぜ、空気が裂け、馬蹄の衝撃が地面を震わせる。


 幸村は馬上で叫んだ。


 「続けぇええ!! ここで怯むな、これが我らの生きた証ぞ!!」


 赤備え三千が、まるで紅蓮の奔流と化して徳川本陣へ流れ込んだ。


 一方、徳川方では忠輝が大声で指揮を取っていた。


 「弓隊、第二列構え! 鉄砲隊、狙いを外すな! 赤備えの先頭を叩け!」


 忠輝はあくまで冷静だった。

 だが胸の奥で、戦いが刻む鼓動は早まり続けていた。


■ 血風、逆巻く


 幸村の突撃は、獣が吠えるような迫力で徳川の先鋒を切り裂いた。

 槍の穂先が光り、敵兵の鎧を砕き、鉄と血の匂いが空に立ち昇る。


 「うおおおおおお!!」


 赤備えが一斉に吼える。

 その士気はまさに死を超えていた。

 死を越えた者は、恐怖も痛みも振り払う。


 その中心で幸村は、武神かと見まがう勢いで槍を振るっていた。


 「退くな! ここを破れば家康本陣は近い!」


 しかし徳川もまた、天下を目前にして退く気はなかった。


 忠輝が叫ぶ。


**「真田を囲めぇ! 左右から押し込め!」**


徳川の鉄砲隊が左右から重ねて火を吐いた。

 赤備えの兵が何人も倒れたが、それでも進む勢いは止まらない。


 ――紅蓮の奔流は、止められない。



■ 忠輝、そして幸村


 両軍が渦を巻く乱戦の中、ついに二人は視線を交わした。


 忠輝と幸村。


 冬の陣、前哨、そして今――

 運命に導かれたように両者は再び相まみえた。


 幸村が馬を疾らせ、槍を突き出してくる。


 忠輝は馬上で鍔迫り合いに応じた。


 鋼と鋼がぶつかり、火花が散る。


 「忠輝殿……あなたの道は、この戦の先にある。だが我ら豊臣はここで散らねばならぬ!」


 「幸村殿! まだ終わってはならぬ!」


 幸村は微笑んだ。

 それは悟りと諦めと誇りを同時に宿した、美しい笑みだった。


 「……終わるのだ。だからこそ、燃ゆるのだ」


 その瞬間、徳川の別働隊が側面から赤備えに突入した。

 幸村は再び前線へと身を投じ、孤軍奮闘の状態となった。



■ 紅蓮の終焉


 日が傾き始めた頃、幸村の赤備えはついに半壊し、馬上の幸村も傷だらけとなりながら戦場を駆けていた。


 その姿は、もはや一人の武将ではなかった。

 紅蓮の炎そのものだった。


 忠輝は遠くからその姿を見つめ、胸を締めつけられる思いがした。


 「……生きろ、幸村殿」


 だが戦いは非情である。

 夕日が落ちる頃、赤い旗は一つ、また一つと消え、最後に――

 真田幸村は、天王寺口で静かに膝を折った。


 その瞬間、戦場の喧騒が遠ざかったように感じられた。


 紅蓮の炎は、ようやく燃え尽きた。



■ 戦の果て


 夜の帳が下りる頃、忠輝は馬を降りて戦場を歩いた。


 焼け焦げた草の匂い。

 血の鉄臭さ。

 風にのって、どこかでうずくまる兵のうめき声。


 忠輝は空を見上げた。


 昼間は紅蓮を映していた空が、いまはただ静かに、暗く、深かった。


 「これで……豊臣の世は終わる、か」


 その声は、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。

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