第17話

第十七章 裂空の章 ― 大阪夏の陣 前哨


 春はとうに過ぎ、空は青く澄み切っているはずであった。だが大阪の上空には、どこかひび割れたような空気が漂い、陽炎のような不吉さが町を覆っていた。冬の陣からわずか半年、豊臣の城下には、再び戦の足音が確実に迫っていた。


 大坂城の西の丸に構える松平忠輝は、天守を仰ぎ見た。漆黒の城は陽に照らされてもなお陰を宿し、まるで巨大な獣が息を潜めているかのようだった。


 「……来るか、夏の火嵐が」

 忠輝は低く呟いた。


 冬の陣で講和を取り持ったはずの徳川と豊臣は、すでに決裂していた。外堀は埋められ、内堀のみとなった大坂城はまるで裸の身となった。それでもなお、城の中には奇妙な熱気が満ちていた。豊臣に縋る浪人たちが武具を磨き、街道には戦を求める男たちが続々と集まってくる。


 その熱は、やがて空を裂く風となって吹き荒れるだろう。



■ 雲を裂く報せ


 その日の午後、忠輝の陣に急報が飛び込んだ。


 「毛利勝永、又兵衛、城外に出て布陣とのこと!」


 その報を聞くや、忠輝は眉をひそめた。

 真田幸村――いや、もはや名乗りを捨てた猿飛佐助のように疾駆する姿で知られた男――も動いたらしい。


 「関東勢が動き出す前に、まずは一度、豊臣方の息の根を止めておかねばならん」

 忠輝は刀の柄に手をかけた。


 そこへ吉継と名乗る浪人が歩み寄った。冬の陣で忠輝が偶然助けた男で、これは秀頼の忠義の者だという。


 「殿、真田左衛門佐が……引き連れし兵はわずか三千。しかし士気は尋常ならず。徳川方を突破して紀州街道を押さえる気かと」


 忠輝は深く息を吐いた。


 「幸村か……いや、あの男はいつも、自らの命と風向きを天秤にかけぬ」

 「どちらに転んでも、風は裂ける……戦が始まるぞ、吉継」



■ 淀殿の決断


 一方、天守に近い奥御殿では、淀殿が秀頼を前に静かに扇を閉じていた。


 「秀頼様……家康は必ず夏を待たずして攻めてまいりましょう。もはや退く道はございませぬ」


 秀頼は大きな影を落とす天井を見上げた。

 母の言葉に覚悟を固めたわけではなく、ただ、その言葉の重みを受け止めるしかなかった。


 「母上……我らは、どうすればよいのですか」


 淀殿は迷いなく答えた。


 「立つしかありませぬ。豊臣の名を空へ返すか、大坂の土へ埋めるか――どちらにせよ、逃げる道はないのです」


 その声は、優しさを孕みながらも、どこか空そのものが裂けていくような冷たさを帯びていた。



■ 忠輝と幸村 ― 天王寺に響く風音


 天王寺口。夏に向かう陽の下、忠輝は馬上から赤備えの軍勢を見つめた。


 その先頭には真田幸村が立っていた。

 赤い鎧を身にまとい、ただ一人、風を背負うように凛と立っていた。


 「徳川殿のご子息が、ここまで出張ってこられるとは」

 幸村は静かに言った。


 忠輝は馬を歩ませる。


 「幸村殿。冬に続き、また会うとはのう」


 「いずれこの国の裂け目は埋まります。しかし、それはあなた方徳川の世か、我ら豊臣の世か……その答えは、もうこの夏で決まる」


 忠輝は答えた。


 「戦は避けられぬ。だが――」


 風が一瞬、両者の間を裂いた。

 砂が舞い、地面を滑る。


 「互いに生き延びられるなら、生き延びたいものよ」


 幸村は少しだけ表情を緩めた。


 「ならば……その願い、戦場で確かめましょう」



■ 裂空、響く


 その翌日。

 大坂夏の陣の火蓋は、わずかな小競り合いから始まった。


 だが一度火がつけば、風は裂け、空が鳴る。

 兵が走り、槍が輝き、太鼓が轟いた。

 大坂の町は、まるで天地が割れたかのような喧噪と熱に包まれた。


 そして、誰も知らぬ。

 この夏が、豊臣の最後の夏になるなど――

 ただ風だけが、ひび割れた空の向こうで、未来の破滅を嗤っていた。

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