第16話

第十六章 火壁の章 ― 大阪冬の陣


 ――その冬、大阪は燃えていた。


 ただし、まだ火は上がっていない。

 だが、誰もがその火を予感していた。

 凍てついた外堀の水面に映る黒雲、枯れ木の枝に積もる白雪。その静けさが、かえって戦の足音を響かせていた。


 私は城壁に立ち、東から迫る徳川勢八万の陣幕を見下ろしていた。


 「数だけなら、豊臣の三倍以上か……」


 兵の声、馬のいななき、鉄砲を試し撃ちする音――すべてが遠雷のように響く。


 だがその音に怯む理由はなかった。


 大阪の城は巨大で、堅固で、豊臣の最後の砦として天にそびえている。

 外堀と内堀は深く、櫓は無数。

 そして何より――この城には“豊臣の誇り”が残っている。


 「千雪。敵の動きはどうだ?」


 真田幸村が城壁に上がってきた。

 兜は赤備え、声は低くも燃えている。


 「本隊は南の丸から攻める構え。

  だが……家康はきっと、城を落とす気はない。

  狙いは“和睦”です」


 「豊臣を外堀だけの城にし、丸裸にするつもりか」


 「ええ。

  冬の陣は……“刀を抜くための舞台”に過ぎませぬ。

  本当に血が流れるのは、次の夏です」


 幸村は空を見上げ、静かに笑った。


 「千雪。

  お主、戦場をよく読むな」


 私は肩をすくめた。


 「刀は抜かねば錆びますから。

  錆びないよう……鍛え続けてきたのです」


 幸村は深く頷いた。



 十二月四日。徳川勢、ついに大筒を城へ向けた。


 鉄の巨砲――オランダ製カルバリン砲。

 その口が大阪城に向けられた瞬間、空気が震えた。


 「撃てッ!」


 轟音。

 凍てついた空が割れるほどの衝撃が大阪の町を揺らした。


 火の粉が雪の上に散り、黒い土が舞い上がる。


 「淀殿の御殿が――!」


 兵が叫んだ。


 大筒は淀殿と秀頼様の御座所がある二の丸を狙っている。

 これはただの威嚇ではない。豊臣の心臓を撃ち抜こうとしている。


 「千雪、来てくれ!」


 声を聞いた瞬間、私は走り出していた。



 二の丸は混乱の渦中にあった。

 瓦が砕け、柱が倒れ、女中が逃げ惑う。


 その中で、秀頼様と淀殿が立っていた。


 秀頼様は震える母を庇いながら、私に叫ぶ。


 「千雪! 母上を安全な所へ!」


 「承知ッ!」


 私は二の丸の瓦礫を踏み越え、淀殿を抱きかかえるようにして御座所から遠ざけた。

 背後で、再び轟音が鳴り響く。

 瓦が雨のように降り注ぐ。


 「秀頼様!」


 振り返ると、秀頼様は倒れた柱の下で身動きが取れなくなっていた。


 私は淀殿を下に降ろすと、迷わず戻った。


 柱を肩で押し上げ、秀頼様の体を引き出す。背中に鋭い痛みが走るが、押し込んだ。


 「千雪……無茶を……」


 「主君を守るのは刃の務めです」


 「刃だけでは死ぬぞ!」


 「折れぬ刃ゆえ、死にませぬ」


 秀頼様が押し黙る。


 私はその腕を掴み、息を荒げて言った。


 「……秀吉様との約束があります。

  “お前は、秀頼を守れ。わしの代わりに支えろ”。

  その言葉を、果たさず死ねませぬ」


 秀頼様の目が揺れた。


 「父上……」


 雪が吹き込み、炎が煌めき、二の丸は地獄のようだった。



 その夜、城は決断を迫られた。


 徳川の砲撃により、多くの民家が焼け落ち、死傷者は数知れない。

 兵たちの怒りは極限まで高まっていた。


 だが――。


 「和睦する」

 秀頼様の声は静かで、深かった。


 「我らが戦えば……大阪の民が死ぬ。

  城も町も灰になり、豊臣はただの“暴君”として滅ぶ。

  父上が残したものを、汚すわけにはいかぬ」


 その言葉に、誰も反論できなかった。


 だが淀殿だけが首を振り、涙をこぼした。


 「秀頼……負けるつもりなの?

  この城で、豊臣は終わるのですか?」


 私は淀殿に向かって静かに言った。


 「終わりではありません。

  ――影として、まだ動く余地がある」


 淀殿が目を見開く。


 「千雪……あなた、何をするつもり?」


 私は秀頼様へ向き直った。


 「秀頼様。

  冬の陣は終わります。

  だが、夏の陣――その時こそ、豊臣の天命が試されます。

  その日まで……私が影として“火”を守ります」


 秀頼様はゆっくりと頷いた。


 「千雪……頼む。

  父上の刃よ。

  我を――豊臣を導いてくれ」


 私は深く頭を下げた。


 大阪の冬空に火の粉が舞い、雪と混じり合っていた。


 白と赤が交じるその光景は、まるで豊臣という巨大な炎の、静かなる息遣いのようであった。


 そして私は悟った。


 ――この冬で、私は“刀”であることを終える。

 ――次の夏、私は“影”として燃え尽きる。


 その覚悟を胸に、私は闇へと姿を沈めた。

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