第15話
第十五章 影炎の章 ― 大阪冬の陣 前夜
淀川の川面が、冬の到来を告げるように鈍い光を返していた。
空気は冷たく、乾き、どこか火種を孕んだようなざわめきが町に満ちている。
大阪――豊臣の最後の牙城。
この城下へ、私は“影”として戻ってきた。
関ヶ原の敗北から、すでに十余年。
天下は完全に徳川の手に落ち、秀頼様は表向き“将軍家に忠誠を誓う若き殿”として大坂城に据え置かれている。
だが、その実態は――監視下の雛のようなものだった。
「影が動く時が、ついに来たか」
私は冬の冷気を胸いっぱいに吸い込み、空を仰いだ。
雲は厚く、どこか火の粉のように赤みを帯びている。
戦の匂いだ。
⸻
秀頼の御座所へ向かうと、すでに多くの家臣たちが集まっていた。
片桐且元、真田幸村、後藤又兵衛……。
彼らはいずれも時期尚早だと家康側から睨まれた曲者ばかりだ。
そしてその中に、母である淀殿の姿があった。
「千雪……戻ってくれたのね」
白い小袖を纏った彼女は、十年前と変わらぬ美しさの中に、深い影を宿していた。
一方の秀頼様は、かつての幼子ではない。
背は私よりも高く、声も眼差しも一国の主としての風格を携えている。
「お前が……あの“父の影”だな」
秀頼様は私を見て少し笑った。
「母から聞いていた。
――父上を支えた刃が、今度は我らを支えると」
「はい。影は常に主のために」
私は膝をつき、深く頭を下げた。
その瞬間、秀頼様は私の肩に手を置き、言った。
「千雪。
お前は刀かもしれないが……わしは“人”として頼りたい。
父上が最後まで手放さなかった心の刃として」
刀としての私も、男としての私も、その言葉に揺れた。
秀吉様が私に向けてくれた、あの温かい眼差しが胸によみがえる。
「……秀頼様。
この命、すべてを懸けてお守りします」
⸻
会議の部屋では、城下の地図が広げられていた。
「徳川家康、ついに兵を上げるだろう」
片桐且元が口を開いた。「豊臣家が武具を集め、兵を募っているとの噂が京に届いている。幕府はこれを“謀反の兆し”と決めつけるつもりだ」
「謀反ではない」
淀殿が強い声で言い返した。「ただ、この城と我が子を守るための備えにすぎませぬ」
「だが幕府に通じぬ理屈です」
幸村が静かに呟く。
私は大阪城の外堀と内堀の構造をじっと見つめた。
ここから先は、刀ではなく“人としての知”が求められる。
「徳川が攻めるのは、冬です」
私は口を開いた。
「冬……だと?」
又兵衛が眉をひそめる。
「ええ。
家康殿は兵糧も補給も十分にある。
対して大阪は、長期戦に弱い。
氷雪の季節であれば攻城戦に持ち込まれ、和睦という名の服従を求められるでしょう」
淀殿が震える声で言う。
「秀頼を……徳川の傀儡にはできぬ。
あの家康に、この子を穢されるわけには……」
私は静かに頷いた。
「だからこそ――我ら“影”が動くのです」
⸻
会議のあと、私は天守の最上階へと登った。
そこからは大阪の町がすべて見渡せる。
雪を待つ黒雲の下、無数の屋根が並び、遠くに淀川が光っている。
美しく、そして儚い光景だ。
「秀吉様……見ていますか」
私は胸の内で呼びかけた。
「お前、よう戻ったな」
声がして振り向くと、片桐且元がいた。
かつて秀吉様に重用され、今は豊臣家の柱石となる男。
「千雪。
わしはお前の事を“吉法師様の影”として尊敬していた。
だが今、豊臣は滅びの坂を転げ落ちておる。
影のお前に聞く。
――勝ち目はあるのか?」
私はしばし沈黙した。
真実を言えば「無い」。
だが影としての言葉は違う。
「勝ち目は……刀が折れぬ限り、あります」
且元が苦く笑った。
「刀とは、お前自身のことか」
「はい。私は折れませぬ」
「……そうであれ」
そして彼は立ち去った。
⸻
夜。
城の庭に雪が舞い始めた。
秀頼様が一人で立っていた。
私は静かに近づく。
「千雪。
なぜそこまで我らに尽くしてくれる」
私は答えた。
「秀吉様が、“人としての私”を拾ってくれたからです。
あの方は、お前と呼びながら……いつも私を一個の人間として扱ってくださった」
秀頼様は少し寂しげに笑う。
「父上は……そういう人だったのだな」
「はい。
そしてあなた様にも、その光がある」
秀頼様の瞳に強い炎が宿った。
「千雪。
わしは戦う。
父上が託した天下を……たとえ一夜でも取り戻したい」
私は深く頷いた。
「では、影としてすべてを捧げましょう。
――燃え尽きるその時まで」
雪は静かに降り積もり、白い炎のように庭を染めていた。
その雪の下で、豊臣という巨大な焔が今まさに燃え上がろうとしていた。
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