第14話

第十四章 落花の章 ― 関ヶ原敗走


 関ヶ原の空を覆っていた黒雲は、夜明けとともに裂け、白い光が戦場に差し込んだ。

 だがその光は、戦を照らす希望ではなかった。

 むしろ、天下が大きく傾く瞬間の、冷たい証明のようであった。


 東西両軍、八万を超える軍勢が入り乱れ、槍、鉄砲の音が雷鳴のように絶えず鳴り響く。

 湿った大地には無数の足跡が刻まれ、血と泥が混ざり、靄となって戦場を覆っていた。


 西軍の中央、石田三成の本陣では、風がむなしく旗を揺らしていた。

 黄金の三つ柏の陣旗は折れず、揺れながらも天空を指していたが――その下に集う兵の数は、刻一刻と減っていた。


 「左……左翼崩れました!」


 血に塗れた伝令が叫ぶ。


 「小早川……動かぬか……!」


 三成は悔しげに歯を食いしばった。

 佐和山から連れてきた少数の家臣たちが周囲を固めていたが、視線は皆、不安に揺れていた。


 島左近はすでに前線へと出ていた。

 彼の奮戦だけが、まるで光の残滓のように戦場に残っていた。


 その刹那――。

 松尾山の向こうで、風が変わった。


 山上の旗がばっと風に翻り、次の瞬間、鉄砲三千が火を噴いた。


 小早川秀秋が動いたのだ。


 「……終わった」


 三成が呟いた声は、驚くほど静かだった。


 その静けさの直後、戦場は地響きのような混乱に飲みこまれた。

 裏切りと恐怖の声が西軍の列を呑み、兵は次々と逃げ惑う。

 空は晴れているのに、地上には暗闇が落ちるような絶望が広がっていた。


 左近が戻ることはなかった。

 彼の最後の突撃は、もはや誰にも止められぬ荒波のごとく、東軍の中央を切り裂いて消えた。


 「撤退だ! 三成様、お急ぎを!」


 家臣たちが三成の袖を掴み、必死に引き離す。

 三成は静かにうなずき、敗走の列へと身を投じた。


 落花――。

 その言葉がぴたりと当てはまる光景だった。

 散る時を悟った花弁のように、西軍の兵は風に吹かれ、ばらばらに散っていく。


 ***


 戦場の外縁、竹林の影にひとつの黒い影があった。


 千雪――秀頼の影法師。


 彼は戦の趨勢をじっと見つめていた。

 小早川が裏切り、諸隊が雪崩を打ち、三成の陣が崩れるそのすべてを。


 「……これで、豊臣の天下は消えた」


 感情の起伏はなかった。

 ただ淡々と、避け得ぬ未来を確かめるように呟いた。


 だが同時に、その胸の奥には別の使命が燃えていた。


 ――秀頼様を守るためには、ここからが“闇”の働きどころ。


 千雪は東軍の追撃隊の位置を確かめると、戦場を離れる三成の一団を追った。

 敗者の首を狙う追手の中に、豊臣の名を泥に沈めようとする者たちが混じっているのを感じたのだ。


 「石田殿が生きて戻れば、大阪に火がつく。

  だが……今落ちれば、戦は完全に家康殿のものとなる」


 千雪は迷わなかった。


 豊臣の未来のため、三成は“生かしても殺してもならぬ”と悟っていた。

 もし生きて捕らえられれば、大阪方は動揺し、家康の大義名分は強まる。

 一方、死ねば討ち死にとして武名は上がり、また豊臣への疑念も深くなる。


 ならば――。


 「わたしが影として、豊臣に都合よき道へ導く」


 彼は竹林の中を駆け抜け、敗走する三成の一団へと近づいた。


 風が吹き抜ける。

 その風は、まるで落ちた花弁を運ぶかのように静かで、そして冷たかった。


 ***


 伊吹山麓。

 三成は疲れ果て、馬から転げ落ちた。

 家臣たちが必死に支えるが、彼の目はすでに遠いものを見ているようだった。


 「……豊臣の、世は……どうなる」


 その問いに誰も答えられなかった。


 ただ、闇から聞こえるように、ひとつの声が沈んで響いた。


 「石田殿。

  あなたの義は……必ず誰かが継ぎます」


 三成が顔を上げると、そこには千雪の姿があった。

 彼がここに現れる理由など、本来どこにもない。


 「……秀頼様の、ためか」


 千雪は静かにうなずいた。


 「あなたの生死は、この先の天下を左右する。

  わたしが導く。

  もはやあなたは戦う必要はない」


 三成の瞳に初めて安堵の色が浮かんだ。


 千雪はその場の兵らに向き直り、短く言った。


 「三成殿はここで匿う。

  この先は“影”が処す。

  ――彼はここにはいなかった。いいな」


 家臣たちは何も問わず、深く頭を下げた。

 敗者の将を救うはずのない絶望の中、彼らはただその言葉を受け入れるしかなかった。


 そして千雪は三成を連れ、闇の奥へと消えていく。


 関ヶ原の空には、ちぎれた雲の間から夕光が差し込んでいた。

 その光は美しくもあり、残酷でもあった。


 ――落花は戻らず。

 だが、その落ちる先に新たな芽を宿すこともある。


 千雪は三成の重みを背に感じつつ、静かに歩みを進めた。

 豊臣の未来は、すでにこの敗走の中で別の形へと動き始めていた。

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