第13話
第十三章 風雷の章 ― 関ヶ原前夜
八月の空は、まるで戦の気を孕んだかのように重く垂れこめていた。
西より吹き寄せる風はぬるく、湿り気を帯び、まるで遠い雷鳴を運んでくるかのようでもある。
伏見城落城の報は、東西すべての武将たちに、否応なく覚悟という名の刃を突きつけていた。
徳川家康は江戸を発ち、上方の情勢をうかがいながら、着々と兵を集める。
一方、石田三成は大谷吉継・小西行長らとともに、五奉行の威信を掲げて西軍の旗揚げに踏み切った。
だが――。
天下はまだ、どちらに傾くとも知れぬ綱渡りの上にあった。
***
佐和山城。
琵琶湖を見下ろすその山上に、風がうねりながら吹き上がっていた。
石田三成は城の最上段の櫓に立ち、湖面に映る雲の影をじっと見つめていた。
その背筋はいつものように細く、そして固い竹のようにまっすぐであったが、顔に浮かぶ影は深い。
「殿、近江一帯の諸将、いまだ返答揃わずにございます」
佐吉――島左近が静かに告げる。
武骨な大男の声はいつもは低く響くが、今はわずかに湿っていた。
三成は目を閉じ、しばし無言のまま風に身を晒していた。
「……彼らも迷っておるのだ。
誰が勝つかではなく……誰につくのが己の義に叶うかを」
その言葉には、三成自身の迷いはなかった。
ただ、その目に映る民の姿、豊臣政権の行く末――それらが胸の奥で重くのしかかっていた。
「左近。
わしは、どうしても義を曲げることができぬ。
たとえそれが敗北の道であろうともだ」
左近は深々と頷いた。
「殿の義は、家臣一同が知っております。
たとえ天下の大半が徳川殿へ傾こうとも、拙者は殿と行く」
三成は微かに笑んだ。
弱々しいが、その奥に確かな光がある。
「……すまぬな、左近。
そなたの命をまた無理に使うことになる」
「命なら、すでに殿へ預けております」
そのやりとりに、風がふっと止まり、次の瞬間には湖面の向こうから雷鳴が響いた。
まるで天がこの戦いを予告するかのように。
***
京の都にも、戦の影は忍び寄っていた。
三条大橋の下、夕暮れの鴨川のほとりを、黒い衣の男がひとり歩いていた。
影法師・千雪。
豊臣秀頼のために生まれた闇の護り刀にして、名を持たぬ男。
千雪は、橋脚に隠れるようにして佇む小柄な僧の前に静かに立つ。
「……増上寺の動きはどうだ」
僧は周囲を一度見回し、声を潜めた。
「徳川殿は軍を動かすのに躊躇いがありません。
それに比し、都の公家たちの心は……すでに半ば、東へ傾きつつあります」
千雪は眉ひとつ動かさず聞いていた。
「豊臣の名は……もう昔日の光か」
僧は答えなかった。
沈黙が、何より雄弁にその現実を語っていた。
千雪は空を仰ぐ。
東雲の空には、雷の光が遠く閃いていた。
「秀頼様は、まだ十五。
民にとっては希望の御名であらねばならぬ」
その言葉は静かだが、底には深い憂いがあった。
「……ならば、わたしが影として動くのみ」
僧が心配そうに問う。
「まさか……関ヶ原へ向かわれるおつもりで?」
千雪は夕風に身を翻し、鴨川の流れを睨むように眺めた。
「あの戦いで天下の形が定まる。
秀頼様にとって不利となる芽は、わたしが摘む」
雷鳴がごろりと響いた。
それは、武士たちの運命を振り分ける天の太鼓にも聞こえた。
***
九月十五日――関ヶ原。
未明の空には、風と雷が混ざり合うような黒雲が流れていた。
西の陣では三成が兵を鼓舞し、東の陣では家康が静かに勝機を見据えていた。
そして、その戦場のどこかに、千雪の影が潜んでいる。
風はざわめき、雷は鳴り、まるで天下が息を潜めているようであった。
やがて――。
東の空が白み始めた瞬間。
戦国最後の大嵐が、音を立てて幕を開けようとしていた。
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