第12話

第十二章 「闇の章 ― 秀頼の影法師」


 殿の老いが目に見えて進むにつれ、俺の役目は静かに、しかし確実に変わっていった。


 それまで俺は、“秀吉を支える影”だった。

 だが今は違う。

 “秀頼を守る影”として、殿から託された使命を果たさねばならない。


 秀頼様は、まだ幼い。

 まるで陽だまりのような存在で――

 その光はあまりに柔らかく、あまりに頼りなく、

 触れれば壊れてしまいそうに思えた。


 ある日のこと。


 秀頼様の稽古が終わり、庭で一人遊んでいたとき、俺はそっと距離を置いて見守っていた。

 その姿は、どこからどう見ても、ただの子供だった。


 そこへ、弱りきった足取りで秀吉公が近づいてきた。

 その顔色は青白く、膝も震えている。

 それでも目だけは、昔と同じ光を保っていた。


 「……お前」


 秀吉公は、俺にだけ聞こえるほどの小さな声で言った。


 「秀頼を、よう見とけ。

 あの子は、わしの残した唯一の光や」


 「承知しております、殿。しかし――」


 「しかしも何もあるか」


 秀吉公は、苦笑のような、怒りのような表情で言った。


 「天下をどうこうするんは、もはやわしやない。

 この子の未来を守れんかったら……

 天下もわしも、全部が無駄になる」


 重い言葉だった。

 殿の背負ってきた光と影の全てを、そのまま押し付けられたような重さ。


 「殿……ご自分の体をまずは――」


 言った瞬間、秀吉公は小さく手を挙げて遮った。


 「わしの体はもうええ。

 心残りはただ一つ、お前に託したことを……

 お前が守り通せるかどうかだけや」


 胸が熱くなった。

 刀としての俺ではなく――

 人としての俺に託された使命なのだ。


 「殿、ご安心を。俺は必ずや秀頼様を――」


 「守るだけでは足らんぞ」


 秀吉公の声が、底から響くように強くなった。


 「秀頼はな、いずれ“大きなものら”に飲まれそうになる。

 徳川、石田、前田……

 あいつらの影は、もはや光より長い」


 その影の意味を、俺は十分理解していた。


 「お前は秀頼の影法師となれ。

 影が動けば、人の心が動く。

 時に人を欺き、時に刃を振るい、

 時に秀頼の前から姿を消してもええ」


 影法師――

 それは人ではなく、刀でもなく、

 “存在そのものが影のように動く者”を意味した。


 「殿……俺は影としてなら、いくらでも動きましょう。

 しかし、秀頼様をお救いできる未来がどこにあるのか……」


 秀吉公は、ふっと哀しい笑みを浮かべた。


 「そんな未来、あるか分からん。

 せやけど、お前がおれば……

 ほんのわずかでも、変わるかもしれん」


 その言葉は、刀だった俺の心の奥を揺らした。

 刀は歴史を変えることはできない。

 だが、刀を握る“誰か”の未来を変えることはできる。


 「殿。

 俺は……殿の願いを、この身のすべてを使って果たしましょう」


 そう言うと、秀吉公は小さく笑った。


 「これでええ。

 お前なら、秀頼の影となり、

 天下の闇を斬り抜けるやろ」


 その瞬間、秀頼様の方から声が聞こえた。


 「父上! 見てください!」


 振り返ると、幼い秀頼様が木刀を振り回していた。

 全く形になっていないが、その姿には確かに輝きがあった。


 秀吉公は涙を堪えるような笑顔で頷いた。


 「見とる、見とるぞ……

 お前の未来を……わしは……」


 声が震えた。

 秀吉公は、涙を見せまいと背を向けた。


 その背中は――

 光の終わりを告げる夕日のように、どこか儚かった。


 俺はその横顔を見つめながら、静かに拳を握った。


 ――俺は秀頼様の影法師となる。


 歴史の大きな流れの中で、刀のような存在がどれほど抗えるかなど、分からない。

 それでも、殿の光を継ぐ者が笑って生きられるように、

 俺は闇に潜り、影を引き受ける。


 秀頼様のために。

 そして殿が信じた未来のために。


 暗い雲が、京の空を覆い始めていた。

 乱世の終わりのはずが、

 その始まりのような気さえした。


 影は濃くなり、闇は深くなる。


 だがその闇こそ――

 俺が生きる場所なのだ。

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