第11話

第十一章 「乱雲の章 ― 不穏の風」


 天下の形がようやく整いはじめた頃、俺の胸の奥には得体の知れぬざわつきが、いつからか居座っていた。


 雲行きが怪しい。

 空を見上げたとき、理由もなくそんな言葉が浮かんだ。


 戦の匂いではない。

 もっと深く、もっと重く、人の心が腐っていくときに生まれるあの臭気。


 徳川、前田、上杉、島津……

 表面上は平伏しながらも、その奥底には計り知れぬ野心が渦巻いていた。

 そして何より――老いが、秀吉公を静かに蝕んでいく。


 ある夕暮れのことだった。


 秀吉公に呼ばれて、伏見城の居間へ向かった。

 いつもなら鮮やかな衣をまとい、笑いながら迎えるはずの秀吉公が、その日に限っては灯りの少ない部屋で背を向けたまま座していた。


 「お前」


 かすれた声だった。

 これほど弱い声を聞いたのは初めてだった。


 「……殿。御加減が」


 言いかけた俺に、秀吉公は手を振った。


 「気遣いはいらん。わしはもう、昔のようには動けん。

 体は軽いようで重く、重いようで……どうにもならん」


 その背中は、小さく見えた。

 天下を掴んだ男の姿とは思えないほどに。


 「殿、まだまだ天下は……」


 「お前、わしを甘やかすな」


 鋭く言い放ち、秀吉公はようやく振り返った。


 「わしは知っとる。

 今の天下は、積み木みたいなもんや。

 一つ取れたら全てが崩れる」


 その「一つ」とは何か。

 俺は言葉にしなかったが、胸の奥で理解していた。


 ――秀吉公自身だ。


 秀吉が光なら、天下はその光に照らされて形を保っている。

 光が弱れば、影は伸び、闇が広がる。


 「殿……」


 俺が言葉を探していると、秀吉公はゆっくり立ち上がった。


 「お前、これからの天下には、わしよりも“秀頼”が必要や。

 わしが死んだら……あの子を守ってやれ」


 胸に、冷たい針が刺さったような感覚が走った。


 「……殿。それは――」


 「命令じゃ」


 秀吉公の声音は、老いを抱えてなお、天下を動かす力を持っていた。


 「秀頼はまだ幼い。

 わしの光は遠うなる。

 せやから……お前が影になってやれ。

 誰にも見えんところで、あの子を守ってくれ」


 こんな命を下されるとは思っていなかった。

 いや、どこかで分かっていたのかもしれない。

 秀吉公が弱っていくたび、その影に俺が吸い寄せられるように役目を増していたことを。


 「……殿。俺は刀ですぞ。

 影として斬ることはできても、未来を守るなど――」


 「違う」


 秀吉公は俺の胸を指で突いた。


 「刀やから守れるんや。

 わしが天下を取れたんも……お前みたいな刃がおったからや」


 その瞬間、秀吉公の目の奥に、若いころと同じ炎が灯った気がした。


 「お前。

 わしはお前を、道具やと思ったことは一度もない。

 ……友や。

 友にしか頼めんことがあるんや」


 胸の奥が熱くなる。

 俺は刀として生まれたが――

 初めて、人として呼ばれた気がした。


 「……承知しました、殿」


 言うと、秀吉公は微笑んだ。

 天下の光を支えてきた男とは思えないほど、静かな、穏やかな笑みだった。


 「これで……わしの心残りは一つ減ったわ」


 そう呟く声は、どこか遠く、弱く響いた。


 外では、突風が吹き荒れ、瓦が揺れる音がした。

 空には厚い雲がかかり、月さえ見えない。


 ――乱雲。


 風はこれからさらに荒れる。

 そして、これまでの光を飲み込もうとするほどの影が迫っている。


 秀吉公の老い。

 天下の不協和。

 徳川家の台頭。

 武将たちの思惑。

 幼い秀頼。

 そして、俺の“本能”。


 全てが重なり合い、嵐の前の空を形作っていた。


 「殿。

 嵐が来ます」


 そう言うと、秀吉公は縁側の向こうを眺めながら言った。


 「ならば、お前。

 嵐の中でこそ、刃は研がれるもんや」


 この言葉とともに、俺は確信した。


 ――戦は終わっていない。

 “天下の行方”は、ここから大きく揺れ動く。


 光が弱まり、影が伸びる時代。

 俺はその影の中心で、これから最も重い役目を背負うことになる。

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