第9話

第九章 「影の章 ― 天下の裏側で」


 天下統一という言葉は、表向きには華やかに聞こえる。

 だが、その裏側にあるのは、光の届かぬ闇だ。

 その闇を覗き込むたび、俺はいつも思う。

 ――ここを歩く者は、もう二度と昔の自分には戻れないのだと。


 聚楽第の一室。

 薄明かりの中で、俺は机に広げられた地図を眺めていた。

 京はすでに秀吉公の掌の内。しかし、その外縁にはまだ不穏が渦巻いている。


 背後の襖が静かに開く音がした。

 振り返らずとも分かる。この足音、この気配――秀吉公だ。


 「お前、よう起きとったな」


 その言葉には、ねぎらいと、どこか探るような響きがあった。


 「殿こそ、今日はお休みになられた方が」


 そう言うと、秀吉公は笑いながら近づいてきた。


 「お前がおる前で、わしが気ぃ抜くわけなかろうが」


 軽口に聞こえるが、その奥にある本音はよく知っている。

 秀吉公は俺を“気を許すための相手”ではなく、

 “気を抜けぬほどの相手”として扱っているのだ。


 どれほど信頼されようと、そこに混ざっているのは敬意ではなく、緊張だ。

 それが逆に、俺には心地よかった。


 「お前……最近、影の者どもとよう会っておるな?」


 突然振られ、息を呑んだ。

 さすがに耳が早い。


 「国をまとめるには、表の武では足りません。どうしても裏の情報が――」


 「嘘はやめぇ」


 ピシャリと断たれた。


 秀吉公の目は、笑っていなかった。

 その目は、天下を狙う者のものだ。

 油断なく、疑い深く、冷ややかで、しかしどこか慈しみに満ちている。


 「お前、わしのためだけに動いておらんやろ」


 鋭い指摘だった。

 隠していたわけではない。ただ――言えることでもなかった。


 俺は、秀吉公が光の道を行くために、

 自分だけ黒い泥に足を沈めているつもりだった。

 だがその泥はすでに、想像以上の深さに達していたのかもしれない。


 「殿の天下が揺るがぬように……それだけでございます」


 声が震えないように努めて答えた。


 秀吉公はしばらく俺を見つめた後、深く息を吐いた。


 「……お前はのう。ほんまに、よう分からんやつじゃ」


 机の脇に腰を下ろし、俺に背を預けるようにもたれかかった。


 「わしは光ばかり見て進んどる。けどの、光だけでは天下は取れん。

 影もまた、必要じゃ。

 ――ただし、影に呑まれるなよ」


 背中越しに伝わる声は、思いのほか柔らかかった。


 「お前が影に沈んでしもうたら、わしの光が、どこへ向かえばええか分からんくなる」


 胸がひどく熱くなった。

 この人は、俺の正体を知りながらなお、こうして心の一部を預けてくる。


 「殿……俺は沈みません。沈むような器なら、ここにはおりません」


 そう言うと、秀吉公は小さく笑った。


 「その言葉、信じたるわ。

 けどな、お前」


 秀吉公は振り向き、真っ直ぐ俺を見据えた。


 「影を歩くなら、終いまで歩け。

 わしの天下の裏側は、お前に任せる」


 その言葉は、信頼であると同時に、逃げ道を塞ぐ宣告でもあった。


 影を背負う者として。

 光に寄り添う者として。

 俺はもう二度と、光だけの世界には戻れない。


 ――だがいい。

 殿の背中が、まだ俺を必要としている限り。


 俺はこの影の道を歩き続ける。

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