第8話

第八章 賤ヶ岳の章 ― 闇を裂く刃


■1 戦の気配と、秀吉の焦り


賤ヶ岳へ向かう道中、秀吉は落ち着きなく馬上で動いた。

足もとを見ることなく、常に前だけを見る。

その横顔は鋭利で、危うく、光を宿した刃そのもののようだった。


「秀吉。焦っているな」


そう言うと、秀吉は鼻で笑った。


「当たり前やろ。勝家を逃したら全部パァや。

 お前もわかっとるだろ」


「わかる。だが……お前が焦ると軍は乱れる」


その瞬間、秀吉の目がわずかに揺れた。


「……そういうとこだよ、お前は。

 わしの欠けとる部分を、すぐ突いてくる」


「補うとは言っていない。正すだけだ」


「へっ。相変わらず口の悪い影やな」


だが、言葉とは裏腹に、秀吉の背から焦りの匂いが少し薄れた。


私は刀としての本能を押し殺し、

人として、秀吉の隣を歩き続けた。



■2 柴田勝家の影


北国の冷たい風が吹く中、

勝家軍の旗が遠くに見え始めた。


彼は武人だ。

武士としての誇りを貫く“堅い男”。


秀吉とは真逆の存在。


私は戦場を眺めながら呟いた。


「敵は手強い。

 あの男の“武”は本物だ」


秀吉は笑った。


「お前、わしが負けると思っとるんか?」


「思っていない。

 だが、お前が勝つには……俺が斬らねばならぬ相手が多すぎる」


秀吉は目を細め、ほとんど囁くように言った。


「そうや。

 だから“お前”が必要なんや」


この一言で胸が締め付けられた。


刀として生まれ、主に選ばれることのなかった私が、

今は秀吉の戦の核になっている。


その事実が、誇りでもあり、恐怖でもあった。



■3 賤ヶ岳、開戦


戦は突如として爆ぜた。

怒号、矢の唸り、太鼓の響き。

私の中の“刀の本能”が熱を帯びる。


斬れ。

叫べ。

血を浴び、鋼の匂いを吸え。


その声に飲まれそうになった瞬間、背後から秀吉の声が飛んだ。


「お前ッ! 暴れるなよッ!

 わしのために斬れ!

 敵のために斬るな!」


その一喝が、私の暴走を引き戻した。


そうだ。

私はもう“野に捨てられた刃”ではない。


秀吉のために斬る。

それが俺の誇りだ。


兵が押し寄せ、私は斬り伏せた。

斬るたびに、秀吉の方角へ体が傾く。

守るために。

支えるために。



■4 秀吉の光、そして“闇”


戦場の中央、秀吉が指揮をとる声が聞こえる。


「押せぇぇぇ! 勝家の首取れぇッ!!」


その瞬間、私は悟った。


秀吉の力は“才覚”でも“運”でもない。

彼は戦場で生きることを楽しんでいる。

人を動かし、戦を操り、天下を掴む。


それは光であり、同時に深い闇だ。


兵が死ぬ。

地が赤く染まる。

悲鳴が風に溶ける。


それでも秀吉は叫ぶ。


「行けぇ! 勝つぞ! 天下はわしらのもんや!」


私はその背を見ながら思った。


——この男はいずれ、誰よりも高く昇る。

 だが同時に、誰よりも深い闇を抱える。


その闇ごと支えるのが“影の刃”である私の役目だ。



■5 勝家の敗北と、秀吉の涙


夕暮れ、賤ヶ岳の勝敗は決した。


柴田勝家——北国の鬼と呼ばれた男は敗退し、

やがて自害したと伝わる。


その報せを聞いた時、秀吉は黙り込んだ。


「勝家どの……あの人は武人の鑑やった」


その声は震えていた。


「秀吉。泣くのか?」


「馬鹿言え。泣くかいな……泣くかいな……」


だが、秀吉の頬を一筋の涙が伝った。


敵将の死に涙を流せる男。

そこに私は、秀吉の“人としての最後の光”を見た気がした。


これから先、天下の頂を目指す中で、

この光が薄れていくことを知りながら。



■6 秀吉の背中を見つめて


戦が終わり、夜空に星が出た頃、秀吉は私に言った。


「お前。

 賤ヶ岳を越えて、わしは……本当に天下を取ると思うか?」


私ははっきり答えた。


「取る。

 お前にしかできない。

 だが……」


「だが?」


「いつか、お前は孤独になる」


秀吉は黙り、しばらく空を見た。


「その時も、お前は……そばにおるんか?」


私は静かに頷いた。


「影は光と共にある。

 光が消えるその日まで、俺はお前の刃だ」


秀吉は小さく笑った。


「頼むぜ……お前」


その背中は、もう“藤吉郎”ではなかった。


天下人・秀吉の背中だった。


そして私は、その影として歩む覚悟を深めた。


次の舞台は

「天下統一」ではなく、“影”としての運命の深まり。

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