第7話

第七章 大返しの章 ― 疾風の中の刃


山崎で勝利したとはいえ、戦国の世は一瞬たりとも止まらない。

柴田勝家が北陸で牙を研ぎ、明智残党が各地へ散り、天下は再び揺れ始めていた。


そんな折、秀吉は唐突に言い放った。


「お前、戻るぞ。

 一気に、姫路までだ」


「は? 今からか」


「そうだ。

 わしが止まったら全部終わる。

 だから走る。お前も走れ」


私は思わず舌打ちした。


「無茶だ」


「無茶じゃねぇと天下なんざ取れねぇ」


その笑みは、疲れの中に狂気めいた光を持っていた。


しかし、私は知っていた。

その狂気こそが、秀吉を秀吉たらしめていることを。



■疾風の中を駆ける


大返しは地獄だった。


雨でも泥でも夜でも構わず、軍勢は進み続けた。

私は先行して敵斥候を斬り、秀吉の背を守り、

時には道を切り開き、時には兵の士気を整えた。


秀吉はずっと馬上にいた。

眠るように目を閉じても、意識は研ぎ澄まされている。


「秀吉、休め」


「アホか。休んだら死ぬ」


「お前だけじゃなく兵も死ぬぞ」


「あいつらは強い。……お前がいるからな」


思わず言葉を失った。


——俺の存在が、軍全体を支えている?


刀だった頃、そんなこと想像もできなかった。


秀吉は続ける。


「お前が前に出ると兵がついてくる。

 “秀吉の刃”が動いとるってな。

 それだけで皆、止まらんのや」


私は胸の奥で熱い何かが軋むのを感じた。


刀だった頃の自分には、決して届かなかった領域。


「……お前。それは買いかぶりすぎだ」


「違う。

 わしは、人の価値を見抜くのが得意なんだよ」


くしゃっと笑うその顔に、もう言葉は返せなかった。



■姫路城に着き、秀吉は“化け物”になる


姫路に戻った秀吉は、そのまま領主・豪商を招集し、

一夜にして莫大な兵糧と金をかき集めた。


常人の十倍の速度で働き、十倍の人間を動かす。


私はその姿を見ていた。


——この男は、誰よりも“戦”に飢えている。


豊臣秀吉という人間の本質は、

光ではなく、野心そのものだ。


その野心が、時に人を救い、時に人を焼く。


そんな危うさを間近で見ながら、私は不思議と安心していた。


野心を制御する役目は、“影”である私の仕事だ。



■夜、秀吉が弱音を吐く


姫路でようやく一息ついた夜、

秀吉は珍しく私を酒の席へ呼んだ。


「お前、防がれたらどうする?」


「何がだ」


「この大返しや。

 誰かが途中で裏切ったら?

 道が塞がれたら?

 兵が疲れて倒れたら?」


私は酒を口に含み、言った。


「お前は必ず道を開く。

 俺がそのために斬る。

 それで十分だろう」


秀吉は目を丸くして笑った。


「お前は本当に……わしを信用しとるんやな」


「信用してる。

 お前の野心は、俺が知っている誰よりも強い」


秀吉は静かに杯を置いた。


「……嬉しいよ。

 わしを丸ごと見とるのは、お前だけや」


その声はかすかに震えていた。


私は気付いた。


この男は天下人に向かう過程で、

誰よりも孤独な場所に立っているのだと。


そしてその孤独を支えるのが、

“影の刃”である私の役目だと。



■再び走り出す ― 賤ヶ岳へ


翌朝、秀吉は軍勢の前に立つ。


「これより北へ向かう!

 柴田勝家を討つ!

 皆ついてこい!

 お前も来い、影の刃!」


私の名を呼ぶ声に、全軍の視線が集まる。


私は前へ一歩出た。


「行くぞ、秀吉。

 お前の天下の道は、俺が開く」


秀吉は満面の笑みを浮かべた。


「おう! 頼むぜ、お前!」


その瞬間、軍が地響きのように動き出した。


次の舞台は――

賤ヶ岳。


秀吉の野心が、光と影の両面で爆発する戦いだ。

そして私の“刃”もまた、試される場所になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る