第6話

第六章 山崎の章 ― 影と光の刃


本能寺の炎を越えた後、私はしばらくの間、言葉を失っていた。


あの夜の光景が、まだ目の裏に焼き付いている。

燃える寺。

空を裂く悲鳴。

そして、藤吉郎——いや、もうこの頃には

“秀吉” の名が似合うその男の、静かな怒り。


本能寺を落ち延びた直後、秀吉は私の肩に手を置いた。


「……お前。まだ行くぞ。ここで折れるわけにいかねぇ」


その声音は震えていた。

怒りか、恐怖か、悔しさか。

あるいは、三つ全部か。


私はただ頷いた。


「行く。お前と共に」


その一言が、再び私を戦へと引き戻した。



■天王山へ向かう道で、秀吉の影を見る


山崎へ向かう道中、秀吉はほとんど眠らなかった。

兵を集め、城を抑え、味方を繋ぎ止め、敵の動きを探る。

人の何倍もの速さで動いているのに、疲れを表に出さない。


だが、私は見逃さなかった。


彼の背に、いつもより濃い影が落ちているのを。


「秀吉……無理をしているな」


言うと、彼は笑いながら酒をあおった。


「当たり前だろうが。信長様の仇だぞ。

 止まれるわけねぇだろ、お前」


“お前”という呼び声に力が乗る。

強気だが、どこか脆い。


その脆さに気付けるのは、おそらくこの世で私だけだ。


私は刀の本能のようなものがざわつくのを覚えた。

過去の私なら、主の影を斬ろうともしただろう。

だが今は違った。


私は秀吉の影ごと抱えたいと思った。


——この男を支えるために、私は人になったのではないか。

そんな錯覚さえ生まれていた。



■戦前夜 秀吉が見せた“光”


山崎盆地に陣を敷いた夜、秀吉は珍しく私を呼んだ。


「お前、今日の月……見たか?」


「見てない。忙しかったからな」


「バカ。こういう時に見ねぇといかんのだ」


そう言って秀吉は、丘の上に私を連れていった。


雲の合間から月が顔を出し、静かに野を照らしていた。

まるで、戦を忘れさせようとするかのような穏やかさだった。


秀吉はしばし月を見、ぽつりとつぶやく。


「信長様は、ああいう光の人だった」


私は黙って聞く。


「だけどよ……俺は違う。

 俺は影だよ。地べた這い回って、泥つけて……

 でも、それでもいいんだ」


月に照らされる秀吉の顔は、光と影の境目にあった。


「影だから、光を守れる。

 影だから、上へ行ける。

 そう思うんだよ、お前」


その言葉に私は胸を撃たれた。

刀であった頃の私は、ただの“刃”だった。

光にも影にもなれなかった。


だが秀吉は違う。

彼は自分の影さえ肯定している。


私はつい口にしていた。


「……お前は光でも影でもない。

 そのどちらも、越えている男だ」


秀吉は驚いたように、こちらを見る。


「へぇ……お前が俺を褒めるとはな」


「褒めてない。ただ、事実だ」


「嘘つけ。嬉しいくせに」


そう言って笑ったその顔は、昔と変わらない。

だが同時に、もう戻れない場所に立っていた。



■山崎の戦い ― 私が“影の刃”になった瞬間


翌朝、戦が始まった。


私は前線に立った。

刀としての本能が暴れたが、私は抑え込んだ。

暴走すれば、味方さえ斬ってしまう。


——私は、ただの刃ではない。

秀吉に選ばれた“影の刃”。


槍が飛び、矢が降り、土が跳ね、兵が倒れる。


秀吉の采配は見事だった。

まるで戦場そのものを手のひらで操っているかのようだった。


「押せぇッ!! お前も行け!!」


秀吉の声で、私は刀を振るった。

昔よりも重い。

だが、不思議と迷いはなかった。


私は影。

秀吉の光を守るための刃。


その役割を理解した瞬間、刃が冴えたように輝いた。


敵の兵を倒しながら、私は背後の秀吉を感じていた。


彼は信長の仇を討つために叫び、

兵を鼓舞し、

前へ、前へと進む。


私はその背を、ただ守り続けた。



■勝利の跡で、秀吉が見せた“影”


山崎を制した後、秀吉は静かに戦場を見下ろした。


「……終わったな」


「終わったな」


「なぁ、お前。

 俺は……信長様みたいになれっかな」


突然の問いだった。


私は迷わず答える。


「なれる。

 だが……お前は信長ではない。

 秀吉として、もっと遠くへ行く」


秀吉はしばらく黙り、やがて小さく笑った。


「……そうか。

 だったら、お前。

 これからも……ついてきてくれ」


その“ついてきてくれ”に、私は胸が熱くなる。


信長が死んだあと、秀吉にも影が忍び寄っていた。

孤独、迷い、焦り。

それを唯一理解できるのは、もしかしたら私なのかもしれない。


私は静かに答える。


「行く。

 お前が光を失うまで、私は影でい続ける」


秀吉は目を細めた。


「頼むぜ……お前」


その瞬間、私は自分の運命を悟った。


——この戦いを境に、秀吉は光へ。

 私は、その影へ。


歴史の車輪が回り始める音がした。


そして、次の舞台は

「大返し」。


光と影の距離が、まだ近かった頃の話だ。

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