第5話
第五章 本能寺の章 ― 炎の中の決断
■1 嫌な胸騒ぎ
その夜、私は妙に眠れなかった。
風がざわめき、月が隠れ、胸の奥の鋼が震える。
嫌な予感がする。
戦で培った勘ではない。
もっと深く、もっと古い――刀の頃の“危機”の匂いだ。
ふいに背後から声がした。
「お前、起きとったんか」
藤吉郎だった。
まるで私の不安を嗅ぎ取って来たように。
「胸騒ぎがする」
「……わしもや」
珍しく藤吉郎の顔に影がある。
笑わず、軽口も言わず、ただ遠くを見ていた。
「嫌な風が吹いとる。
お前……離れるなよ」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
⸻
■2 知らせ
翌朝。
一騎の使者が駆け込んできた。
馬を飛ばし、砂を巻き上げ、声を張り上げる。
「急報! 本能寺――炎上!!
織田信長公、討たれた!!」
その場の空気が凍りついた。
藤吉郎は、わずかに目を閉じ、すぐに開いた。
炎のような光が宿っている。
「おい、お前」
「……ああ」
「行くぞ。
わしらの運命が、ここで決まる」
藤吉郎はすぐさま軍を動かす。
迷いも恐れもない。
その背中は、もはや“天下人の影”を帯びていた。
私はその背中を見つめながら、胸の奥で決意を固めた。
――この男を守るために生まれた。
刀であろうと、人であろうと。
⸻
■3 焦げる京都の空
京都に入ると、空はまだ薄く煙っていた。
本能寺の跡に立つと、焼け焦げた木材の匂いが鼻を刺す。
私は足を踏み入れた瞬間、肺の奥が締めつけられた。
刀だった頃――
焼ける匂いは“終わり”を意味した。
鞘も柄も焼け落ちれば、刃は死ぬ。
ここには、確かに“死の気配”がある。
藤吉郎がゆっくりと口を開いた。
「信長様は……死んだんやな」
その声は震えていない。
むしろ、決意だけが硬かった。
「お前」
「なんだ」
「わしについて来い。
これから先……血の雨が降る。
お前がおらんかったら、わしは死ぬ」
その言葉が、戦場のどんな叫びより深く響いた。
⸻
■4 襲い来る刀の記憶
焼け跡の中心に立ったとき――
私は膝が震えるのを感じた。
“炎の中で死ぬ”。
それは刀としての本能が最も恐れる死に方だ。
内部で鋼の記憶が暴れ出す。
――怖い。
焼けたくない。
消えたくない。
その瞬間、藤吉郎の手が私の腕を掴んだ。
「おい、お前。
しっかりせぇ!!」
私は思わず顔を向けた。
藤吉郎の目は、炎より熱かった。
「刀の記憶なんて知るか。
お前はもう、人や。
わしの側に立つ“人間”や!!」
その言葉が、胸の奥の恐怖を斬り裂いた。
私は深く息を吸い、焼け跡を見据えた。
「……行こう、藤吉郎」
彼は満足げに頷いた。
⸻
■5 決断の刻
本能寺を後にしながら、藤吉郎は低く呟いた。
「挙兵や。中国大返しや。
わしは明智光秀を討つ。
信長様の無念、晴らしたる」
私はその背中に歩調を合わせながら言った。
「藤吉郎。
俺は……お前のために振る。
刃としてでも、人としてでも」
「ほな、決まりやな」
藤吉郎は笑った。
悲しみも怒りもすべて飲み干した“強い笑い”だった。
「お前。
お前はわしの刃で、わしの影や。
ここから先は――二人で駆けるぞ」
私はその言葉を胸に刻んだ。
本能寺の炎の残り香が、まだ背中にまとわりつく。
だがもう、刀としての恐怖ではない。
――これは“人としての覚悟”の匂いだ。
私は藤吉郎の背に続き、大返しの道へ踏み出した。
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