第4話
第四章 長篠の章 ― 鋼の記憶が疼く
■1 鉄砲の匂い
長篠へ向かう道中、私はずっと落ち着かなかった。
風に混じって漂う、焦げたような匂い――火薬の臭いだ。
私は刀だった頃、その匂いを知らぬ。
だが、鋼としての本能がざわめく。
「おい、お前。顔、怖なっとるで」
いつもの軽口とは違う声で、藤吉郎が私を覗き込んだ。
「……あの匂いが気に入らん」
「そらそうや。
刀からしたら、鉄砲なんて気に食わん道具やろな」
「……わかるのか?」
藤吉郎は笑わずに言った。
「わしには、お前のざわつきくらいわかる。
お前は刀で、人や。
その狭間で揺れるんは、当たり前やろ」
不思議な男だ。
私の心の深いところに触れる言葉を、迷いなく言ってのける。
⸻
■2 長篠の陣
武田の赤備えが地鳴りのように迫る。
鉄砲三段撃ちの火花が闇を裂く。
鉄の雨が降り、馬が悲鳴を上げ、戦場が焼ける匂いに染まる。
私は戦場に立ちながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
――斬れ。
鉄砲に奪われる前に、斬れ。
刃の役目を思い出せ。
刀としての記憶が疼く。
視界が赤く染まる。
気づけば私は前へ出ていた。
「おい!! お前!!」
藤吉郎の声が届くが、足は止まらない。
血の匂いを求めて進んでしまう。
なぜか苦しい。
なぜか涙が滲む。
「俺は……刀じゃない……!」
そう叫んだつもりだが、声になったかはわからない。
■3 暴走
武田の兵が目の前に現れた瞬間、私は体が勝手に動くのを感じた。
刀を抜く。
鋼が空気を裂く音がした瞬間、もう止まれなかった。
斬る。
斬る。
ただ、斬る。
叫び声も、鉄砲の音も、もう耳に入らない。
――これは“戦い”ではない。
――これは“衝動”だ。
自分の手が自分のものではなくなる恐怖。
それでも刃は止まらない。
私は薄れゆく意識の奥で、ただ一つの声を探していた。
“名前を呼んでくれる声”を。
⸻
■4 藤吉郎の拳
気づけば背後から誰かに抱き止められていた。
「やめぇッ!! お前、戻ってこいッ!!」
藤吉郎の怒鳴り声が耳元で炸裂した。
その拳が、私の頬に強く打ち込まれる。
痛みよりも、その声に胸が震えた。
「お前!!
ここで刃に戻る気か!!
わしを……置いていく気なんか!!」
私は息を呑んだ。
藤吉郎は私の胸ぐらを掴み、涙混じりの声で叫んだ。
「お前は……わしの、人間や……!」
私は、はじめて自分の胸の奥が“震えている”ことに気づいた。
「藤吉郎……俺は……」
言葉が続かない。
刀としての衝動が、ゆっくりと霧のように消えていく。
藤吉郎は私を抱いたまま、静かに言った。
「お前。
わしが使うんや。
刀としてやのうて、“人”としてや」
その言葉が、戦場の喧騒に飲まれぬほど強かった。
⸻
■5 火薬の夜、二人の影
その夜、私と藤吉郎は焚き火を囲んでいた。
長篠の戦の余韻がまだ耳に残る。
「お前、今日死んどってもおかしなかったぞ」
藤吉郎が湯を差し出す。
「……斬るのが怖かったんじゃない。
斬らずにいる自分が怖かった」
私がそう言うと、藤吉郎は苦笑した。
「やっぱり、お前は化けもんや」
「そうだろうな」
「せやけどな。
お前を“人”にしてるのは……わしやと思っとる」
不意に胸が熱くなる。
「勝手な男だ」
「せや。勝手や。
せやから……お前も勝手に生きろ。
わしの隣でな」
焚き火の熱が、妙に心地よかった。
私は湯を飲み干し、静かに答えた。
「藤吉郎。
俺は――お前のために、人でいる」
藤吉郎は満足そうに笑った。
「ほなええ。
次は本能寺や。
お前が必要になる」
私は刀の柄を握りしめる。
刀としての疼きはまだ消えない。
だが、藤吉郎の手がそれを抑えてくれる。
この男のためなら、何度でも立ち直れる。
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