第3話

第三章 墨俣一夜城


藤吉郎の隊に加わってから、私は初めて“人として働く”ということを覚えた。

とはいえ、五十三年も刀として生きてきた身だ。

日々の雑務――水汲み、薪割り、飯炊き、道具運び――どれも勝手が違う。


桶を持てば重さにふらつき、縄を結べば手が震え、

包丁を握るとつい“斬る角度”を考えてしまう。

藤吉郎はそれを見ては腹を抱えて笑った。


「お前さん、戦は強そうだが日常はからきしだな!」


「若い頃にはこんな苦労はなかった」


「そりゃそうだろうよ!」


そう言われると返す言葉もない。

だが、奇妙なことに――

人としての不器用さを笑われるのは、少しだけ心地よかった。

刀の頃には、誰にも“笑われる”などという経験はなかったのだから。



やがて、美濃攻めの前線に呼び出された。

藤吉郎は上からの命で、墨俣に“砦を築け”と命じられたらしい。

敵は川向こう。

夜襲の常習犯、斎藤方の間者も徘徊する危険な土地だ。


「一夜で城を建てるぞ」


「城を……一夜で?」


「そうだ。無茶か?無茶だな。でもやる」


藤吉郎は朗らかに言った。

その無茶を本気でやりきる男だということは、私もすでに理解し始めていた。



夜、川辺に陣を張る。

月が水面に光を落とし、風が葦を揺らしていた。

私は周囲を巡回していたが、妙な気配が漂うのを感じた。


「……来る」


敵の気配。

音は小さい。だが、肌でわかる。

刀だった頃、鞘の中で聞き分けていた“殺気”に似ていた。


草むらの影が揺れた。

反射的に身を投げ出し、藤吉郎の背を押し倒す。

直後、矢が私の肩口をかすめた。


「危ねぇな!」


「敵の斥候だ。十……いや十二。東側から回っている」


藤吉郎は驚いたように目を見開いた。


「見えたのか?」


「いや……感じた」


刀の感覚は、まだ私に残っている。

それをどう説明すればよいのか、自分でもよくわからない。


藤吉郎は口元をゆるめた。


「やっぱりな。お前みてぇな奴を、ただの兵にしておくのは惜しい」


そう言った彼の声に嘘はなく、

それが妙に胸に響いた。



夜襲は私の察知で防ぐことができ、

そのまま我々は一気に丸太を組み、板を敷いて城の骨組みを整えた。

私は力仕事を黙々と続けながら、

心が妙に安らいでいることに気づいた。


――誰かの役に立つというのは、こういうものか。


刀としての頃は、ただ“振るわれる事を待つ”だけの存在だった。

自分で何かを選ぶことも、望むこともなかった。


だが今は違う。

私は自分の意思で、藤吉郎のために働いている。


それが、悪くなかった。



墨俣の砦が夜明けとともに姿を現したとき、

兵たちは歓声を上げた。

藤吉郎は満足げに腕を組んだ。


「これで、俺は前へ進める」


その横顔を見ていると、

胸の奥に灯がともるような、不思議な感覚があった。


――俺は、この男に使われたいのかもしれない。


刀だった頃、何度夢想しても叶わなかった“主”の存在。

それが今、目の前にいる。


藤吉郎はふいにこちらを見た。


「お前がいて助かった。俺一人じゃ無理だったぜ」


「……藤吉郎」


「ん?」


「俺を……もっと鍛えてくれ」


藤吉郎は笑った。


「任せとけ。お前はまだ伸びる。

刀でも、人でもな。

磨けば光る奴ってのは、歳なんぞ関係ねえ」


その言葉に、私は確かに応えた。



墨俣一夜城の完成は、

木下藤吉郎が天下に名を知らしめる第一歩となり、

同時に――

“刀の男”である私が“人としての道”を歩み始めた第一歩でもあった。


追記1

■1 焚き火の前で


焚き火の火が、ぱちりと跳ねた。

その光を受けて、私は自分の手をしばらく眺めた。

まだ血の温度が残っているような気がする。


――斬っても、心が動かぬのなら、私は本当に“人”なのか。


そんな思いに沈んでいた時、背中に声が落ちてきた。


「おい、お前。また手ぇ見て悩んどるんか」


振り返らずとも藤吉郎だ。

勝手に隣へ腰を下ろし、湯を差し出してくる。


「飲め。夜は冷える」


「……余計なお節介だ」


そう言いつつ受け取る私を見て、藤吉郎は子供のように笑った。


「お前は獣みてぇな目しとるけどな。

獣にも帰る巣がある。

お前にも、きっとあるはずや」


私は首を振った。


「俺には……そんなものはない」


「あるさ。人の中に」


焚き火の揺れが、藤吉郎の横顔を赤く照らした。

その言葉は、胸のどこかに静かに沈んでいった。



■2 刀の声


皆が眠りについた深夜、私は刀を膝に置き、じっと耳を澄ませていた。


――斬れ。

もっと斬れ。

それが“刃”の道だ。


刀の本能が私の中で、獣のように吠える。


私は歯を噛みしめ、刀を鞘へ収めた。

そのとき、草の揺れる音が。


「おい、お前。生きとるか?」


藤吉郎だった。

反射的に刀へ手を伸ばしてしまう。


「おいおい! お前、わしを斬る気か!」


「……悪い」


「まったく、お前は油断すると“刀の化けもん”に戻りよる」


軽口を叩きながらも、藤吉郎の目は私の震えを見逃さない。


「お前な、人やぞ。

その声を押さえとるのも、人間やからできるんや」


「……俺は、人かどうかすら怪しい」


藤吉郎はふっと笑った。


「ほな、わしが認めたるわ。

お前は人や。

だから、わしが使う」


胸の奥が、不意に熱を帯びた。



■3 藤吉郎の孤独


藤吉郎は突然、空を見上げた。


「お前な、わしも人に理解されんかったんや」


「お前ほど好かれる男がか?」


「表向きだけよ。

わしには欲も、ずる賢さもある。

そんなもん好けられるかいな」


私は黙った。


藤吉郎はゆっくり続けた。


「せやけどな……お前に出会えて、なんか楽になったわ」


「俺に……?」


「そうや。

お前はわしの腹の底まで見抜く。

それが、気持ちええ」


胸がじわりと痛む。

誰にも必要とされたことのない私に、その言葉は重すぎた。


――この男だけは、俺を“人間”と呼んだ。


その事実が、心に刺さった。



■4 初めての忠誠


私は藤吉郎に向き直った。


「藤吉郎。

俺は……お前のために刀を振る」


藤吉郎はにやりと笑った。


「そりゃ心強いがな、お前に一つだけ言うとく」


「なんだ」


「わしのために振るんとちゃうぞ。

お前自身のために振れ。

じゃなきゃ刀に呑まれる」


私は息をのみ、深くうなずいた。


「……わかった」


焚き火の火の粉が舞う。

それが妙に眩しかった。



■5 背を守ると決めた朝


夜が明け、霧が晴れると、敵陣の影が見えてきた。


「お前! 後ろは任せたぞ!」


藤吉郎が遠くで手を挙げた。


私は刀の柄を握りしめる。


「……任せろ」


斬るためではなく、守るために。

初めて、自分の意志で刀を抜いた。


――この背中は、俺が守る。


その瞬間、刀だった私の中に、確かに“人”が芽生えた。


追記2

■1 藤吉郎の無茶


墨俣へ向かう途中、藤吉郎は唐突に私の肩を叩いた。


「お前、木の重さに強いか?」


「・・・だった頃よりは軽いが、何を運ばせる気だ」


「城や。でっかいのを一夜で建てる」


「……正気か?」


藤吉郎は当然のように頷いた。


「正気や。正気やのうて勝てるかいな。

美濃の連中を驚かせて、わしらの存在を刻みつけたるんや」


無茶にもほどがある。

だが妙に心がざわついた。


――この男の無茶は、なぜか斬り開ける気がする。


そんな確信めいた感覚が、私の中に育ち始めていた。


「お前、手伝え。

重いもんは、お前の役やろ?」


半ば呆れながらも、私は頷いていた。



■2 沈黙の刃となる


夜、川辺には闇と湿気が満ちていた。

敵の偵察の目をかいくぐり、木材を運ぶ足音を最小限に抑える。

少しでも音を立てれば、美濃の斥候が飛んでくる。


藤吉郎が私に小声で言った。


「お前、前に立て。音も気配も斬れ」


「気配を……“斬る”か」


「お前ならできるやろ」


この男はいつも、私の限界を先に信じてしまう。

不思議なことに、それが腹立たしくも嬉しい。


私は息を整え、闇に溶けた。

刀だった頃の感覚が蘇る。

風の通り道、草の揺れ、敵の体温の気配――すべてが見える。


一歩。

そしてもう一歩。


足音は消え、闇の中を音もなく進む。

藤吉郎の部隊が背後に続く。


「お前……ほんまに化けもんやな」


藤吉郎の呟きが聞こえた。


「お前が“使う”と言ったんだろう。なら、使われてやる」


藤吉郎は笑った。



■3 一夜城の完成


夜明け前。

川霧が白く立ち込める中、突如として“城の影”が浮かび上がった。


まだ粗いが、城の体裁を成している。

美濃方の矢倉から、驚愕の叫びが響いた。


「な、何者だ……!?

昨日、何もなかったはずだろう!」


藤吉郎が私の肩を叩き、声を潜めて笑った。


「お前、ええ顔しとるぞ。

刀が光る前の顔や」


「俺の顔を刀の顔扱いするな」


「せやけど……お前がいたから、できたんや」


藤吉郎は遠く城影を見つめながら呟いた。


「この城は、わしとお前の城や」


胸の奥が熱くなる。

これ以上の褒め言葉があるだろうか。


私はただ黙って朝日を見つめた。



■4 初陣の影


墨俣を足がかりに、美濃方との衝突は激しさを増した。


戦場に立つと、刀の本能が耳元で囁く。


――斬れ。

すべてを斬れ。

それが“刃”の役目だ。


目が霞む。

血の匂いだけが鮮明になる。


その時、背後から声が飛ぶ。


「おい! お前!」


藤吉郎だ。


「お前、その目やめぇ!

斬るために斬っとるんやないぞ!」


私ははっと我に返る。

いつの間にか“刀”の目になっていた。


「……悪い。少し暴れた」


「お前は化けもんや。

せやけど、人は化けもんを飼いならす。

その役は、わしのもんや」


藤吉郎は笑い、私の肩に軽く拳を当てた。


「戻ってこい。

お前はわしの“家来”なんやからな」


――家来。


この言葉が、妙に温かかった。

私は初めて、自分の“居場所”を得た気がした。



■5 美濃、そしてその先へ


美濃攻略が進む中、藤吉郎の名は尾張でも急速に広まり始めた。

そのたびに、彼は必ず言う。


「わしだけやない。

お前もおるから、ここまで来れた」


「俺はただの影だ」


「影あってこその光や。

お前はわしの刃であり……背中や」


――背中か。


今まで背中を預けてくる者などいなかった。

預けられるに値すると思われたこともなかった。


だから私は答える。


「藤吉郎。

俺は……お前の背中を守る。

これからも、ずっと」


藤吉郎は笑った。

嬉しそうに、子供みたいに。


「ほな行くで、お前。

次の戦はもっとでかい。

わしらの天下が、ちょっと近づくかもしれん」


その言葉に胸が震えた。


私は、ただの刀ではない。

この男のために振るう“刃”だ。


そして私は、人になった。

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