第3話
第三章 墨俣一夜城
藤吉郎の隊に加わってから、私は初めて“人として働く”ということを覚えた。
とはいえ、五十三年も刀として生きてきた身だ。
日々の雑務――水汲み、薪割り、飯炊き、道具運び――どれも勝手が違う。
桶を持てば重さにふらつき、縄を結べば手が震え、
包丁を握るとつい“斬る角度”を考えてしまう。
藤吉郎はそれを見ては腹を抱えて笑った。
「お前さん、戦は強そうだが日常はからきしだな!」
「若い頃にはこんな苦労はなかった」
「そりゃそうだろうよ!」
そう言われると返す言葉もない。
だが、奇妙なことに――
人としての不器用さを笑われるのは、少しだけ心地よかった。
刀の頃には、誰にも“笑われる”などという経験はなかったのだから。
※
やがて、美濃攻めの前線に呼び出された。
藤吉郎は上からの命で、墨俣に“砦を築け”と命じられたらしい。
敵は川向こう。
夜襲の常習犯、斎藤方の間者も徘徊する危険な土地だ。
「一夜で城を建てるぞ」
「城を……一夜で?」
「そうだ。無茶か?無茶だな。でもやる」
藤吉郎は朗らかに言った。
その無茶を本気でやりきる男だということは、私もすでに理解し始めていた。
※
夜、川辺に陣を張る。
月が水面に光を落とし、風が葦を揺らしていた。
私は周囲を巡回していたが、妙な気配が漂うのを感じた。
「……来る」
敵の気配。
音は小さい。だが、肌でわかる。
刀だった頃、鞘の中で聞き分けていた“殺気”に似ていた。
草むらの影が揺れた。
反射的に身を投げ出し、藤吉郎の背を押し倒す。
直後、矢が私の肩口をかすめた。
「危ねぇな!」
「敵の斥候だ。十……いや十二。東側から回っている」
藤吉郎は驚いたように目を見開いた。
「見えたのか?」
「いや……感じた」
刀の感覚は、まだ私に残っている。
それをどう説明すればよいのか、自分でもよくわからない。
藤吉郎は口元をゆるめた。
「やっぱりな。お前みてぇな奴を、ただの兵にしておくのは惜しい」
そう言った彼の声に嘘はなく、
それが妙に胸に響いた。
※
夜襲は私の察知で防ぐことができ、
そのまま我々は一気に丸太を組み、板を敷いて城の骨組みを整えた。
私は力仕事を黙々と続けながら、
心が妙に安らいでいることに気づいた。
――誰かの役に立つというのは、こういうものか。
刀としての頃は、ただ“振るわれる事を待つ”だけの存在だった。
自分で何かを選ぶことも、望むこともなかった。
だが今は違う。
私は自分の意思で、藤吉郎のために働いている。
それが、悪くなかった。
※
墨俣の砦が夜明けとともに姿を現したとき、
兵たちは歓声を上げた。
藤吉郎は満足げに腕を組んだ。
「これで、俺は前へ進める」
その横顔を見ていると、
胸の奥に灯がともるような、不思議な感覚があった。
――俺は、この男に使われたいのかもしれない。
刀だった頃、何度夢想しても叶わなかった“主”の存在。
それが今、目の前にいる。
藤吉郎はふいにこちらを見た。
「お前がいて助かった。俺一人じゃ無理だったぜ」
「……藤吉郎」
「ん?」
「俺を……もっと鍛えてくれ」
藤吉郎は笑った。
「任せとけ。お前はまだ伸びる。
刀でも、人でもな。
磨けば光る奴ってのは、歳なんぞ関係ねえ」
その言葉に、私は確かに応えた。
※
墨俣一夜城の完成は、
木下藤吉郎が天下に名を知らしめる第一歩となり、
同時に――
“刀の男”である私が“人としての道”を歩み始めた第一歩でもあった。
追記1
■1 焚き火の前で
焚き火の火が、ぱちりと跳ねた。
その光を受けて、私は自分の手をしばらく眺めた。
まだ血の温度が残っているような気がする。
――斬っても、心が動かぬのなら、私は本当に“人”なのか。
そんな思いに沈んでいた時、背中に声が落ちてきた。
「おい、お前。また手ぇ見て悩んどるんか」
振り返らずとも藤吉郎だ。
勝手に隣へ腰を下ろし、湯を差し出してくる。
「飲め。夜は冷える」
「……余計なお節介だ」
そう言いつつ受け取る私を見て、藤吉郎は子供のように笑った。
「お前は獣みてぇな目しとるけどな。
獣にも帰る巣がある。
お前にも、きっとあるはずや」
私は首を振った。
「俺には……そんなものはない」
「あるさ。人の中に」
焚き火の揺れが、藤吉郎の横顔を赤く照らした。
その言葉は、胸のどこかに静かに沈んでいった。
⸻
■2 刀の声
皆が眠りについた深夜、私は刀を膝に置き、じっと耳を澄ませていた。
――斬れ。
もっと斬れ。
それが“刃”の道だ。
刀の本能が私の中で、獣のように吠える。
私は歯を噛みしめ、刀を鞘へ収めた。
そのとき、草の揺れる音が。
「おい、お前。生きとるか?」
藤吉郎だった。
反射的に刀へ手を伸ばしてしまう。
「おいおい! お前、わしを斬る気か!」
「……悪い」
「まったく、お前は油断すると“刀の化けもん”に戻りよる」
軽口を叩きながらも、藤吉郎の目は私の震えを見逃さない。
「お前な、人やぞ。
その声を押さえとるのも、人間やからできるんや」
「……俺は、人かどうかすら怪しい」
藤吉郎はふっと笑った。
「ほな、わしが認めたるわ。
お前は人や。
だから、わしが使う」
胸の奥が、不意に熱を帯びた。
⸻
■3 藤吉郎の孤独
藤吉郎は突然、空を見上げた。
「お前な、わしも人に理解されんかったんや」
「お前ほど好かれる男がか?」
「表向きだけよ。
わしには欲も、ずる賢さもある。
そんなもん好けられるかいな」
私は黙った。
藤吉郎はゆっくり続けた。
「せやけどな……お前に出会えて、なんか楽になったわ」
「俺に……?」
「そうや。
お前はわしの腹の底まで見抜く。
それが、気持ちええ」
胸がじわりと痛む。
誰にも必要とされたことのない私に、その言葉は重すぎた。
――この男だけは、俺を“人間”と呼んだ。
その事実が、心に刺さった。
⸻
■4 初めての忠誠
私は藤吉郎に向き直った。
「藤吉郎。
俺は……お前のために刀を振る」
藤吉郎はにやりと笑った。
「そりゃ心強いがな、お前に一つだけ言うとく」
「なんだ」
「わしのために振るんとちゃうぞ。
お前自身のために振れ。
じゃなきゃ刀に呑まれる」
私は息をのみ、深くうなずいた。
「……わかった」
焚き火の火の粉が舞う。
それが妙に眩しかった。
⸻
■5 背を守ると決めた朝
夜が明け、霧が晴れると、敵陣の影が見えてきた。
「お前! 後ろは任せたぞ!」
藤吉郎が遠くで手を挙げた。
私は刀の柄を握りしめる。
「……任せろ」
斬るためではなく、守るために。
初めて、自分の意志で刀を抜いた。
――この背中は、俺が守る。
その瞬間、刀だった私の中に、確かに“人”が芽生えた。
追記2
■1 藤吉郎の無茶
墨俣へ向かう途中、藤吉郎は唐突に私の肩を叩いた。
「お前、木の重さに強いか?」
「・・・だった頃よりは軽いが、何を運ばせる気だ」
「城や。でっかいのを一夜で建てる」
「……正気か?」
藤吉郎は当然のように頷いた。
「正気や。正気やのうて勝てるかいな。
美濃の連中を驚かせて、わしらの存在を刻みつけたるんや」
無茶にもほどがある。
だが妙に心がざわついた。
――この男の無茶は、なぜか斬り開ける気がする。
そんな確信めいた感覚が、私の中に育ち始めていた。
「お前、手伝え。
重いもんは、お前の役やろ?」
半ば呆れながらも、私は頷いていた。
⸻
■2 沈黙の刃となる
夜、川辺には闇と湿気が満ちていた。
敵の偵察の目をかいくぐり、木材を運ぶ足音を最小限に抑える。
少しでも音を立てれば、美濃の斥候が飛んでくる。
藤吉郎が私に小声で言った。
「お前、前に立て。音も気配も斬れ」
「気配を……“斬る”か」
「お前ならできるやろ」
この男はいつも、私の限界を先に信じてしまう。
不思議なことに、それが腹立たしくも嬉しい。
私は息を整え、闇に溶けた。
刀だった頃の感覚が蘇る。
風の通り道、草の揺れ、敵の体温の気配――すべてが見える。
一歩。
そしてもう一歩。
足音は消え、闇の中を音もなく進む。
藤吉郎の部隊が背後に続く。
「お前……ほんまに化けもんやな」
藤吉郎の呟きが聞こえた。
「お前が“使う”と言ったんだろう。なら、使われてやる」
藤吉郎は笑った。
⸻
■3 一夜城の完成
夜明け前。
川霧が白く立ち込める中、突如として“城の影”が浮かび上がった。
まだ粗いが、城の体裁を成している。
美濃方の矢倉から、驚愕の叫びが響いた。
「な、何者だ……!?
昨日、何もなかったはずだろう!」
藤吉郎が私の肩を叩き、声を潜めて笑った。
「お前、ええ顔しとるぞ。
刀が光る前の顔や」
「俺の顔を刀の顔扱いするな」
「せやけど……お前がいたから、できたんや」
藤吉郎は遠く城影を見つめながら呟いた。
「この城は、わしとお前の城や」
胸の奥が熱くなる。
これ以上の褒め言葉があるだろうか。
私はただ黙って朝日を見つめた。
⸻
■4 初陣の影
墨俣を足がかりに、美濃方との衝突は激しさを増した。
戦場に立つと、刀の本能が耳元で囁く。
――斬れ。
すべてを斬れ。
それが“刃”の役目だ。
目が霞む。
血の匂いだけが鮮明になる。
その時、背後から声が飛ぶ。
「おい! お前!」
藤吉郎だ。
「お前、その目やめぇ!
斬るために斬っとるんやないぞ!」
私ははっと我に返る。
いつの間にか“刀”の目になっていた。
「……悪い。少し暴れた」
「お前は化けもんや。
せやけど、人は化けもんを飼いならす。
その役は、わしのもんや」
藤吉郎は笑い、私の肩に軽く拳を当てた。
「戻ってこい。
お前はわしの“家来”なんやからな」
――家来。
この言葉が、妙に温かかった。
私は初めて、自分の“居場所”を得た気がした。
⸻
■5 美濃、そしてその先へ
美濃攻略が進む中、藤吉郎の名は尾張でも急速に広まり始めた。
そのたびに、彼は必ず言う。
「わしだけやない。
お前もおるから、ここまで来れた」
「俺はただの影だ」
「影あってこその光や。
お前はわしの刃であり……背中や」
――背中か。
今まで背中を預けてくる者などいなかった。
預けられるに値すると思われたこともなかった。
だから私は答える。
「藤吉郎。
俺は……お前の背中を守る。
これからも、ずっと」
藤吉郎は笑った。
嬉しそうに、子供みたいに。
「ほな行くで、お前。
次の戦はもっとでかい。
わしらの天下が、ちょっと近づくかもしれん」
その言葉に胸が震えた。
私は、ただの刀ではない。
この男のために振るう“刃”だ。
そして私は、人になった。
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