第2話

第二章 猿と呼ばれた男


尾張の街を歩きながら、私は自分の足取りにまだ慣れずにいた。

刀としては軽やかに斬り結べたはずの身体が、

人の姿になった途端、妙にぎこちない。


――重い。いや、重さが違う。


刀身の重さではなく、筋肉の疲れ、節々の痛み、

そういう“人間の重さ”が、今の私には正体を掴ませぬままのしかかってくる。


ふと、背後から甲高い声が飛んできた。


「おい、そこの親父!危ないぞ!」


振り返る間もなく、荷車が横合いから突っ込んできた。

私は反射的に身をひねって避けた。

動きは鈍っているはずなのに、体は妙によく反応した。

刀として培った感覚が、まだ私の中に残っているのだろう。


荷車の後ろから、小柄な男が走り寄ってくる。

濃い眉、鋭い目つき、どこか猿を思わせる身軽な動き。

口は悪いが、目は笑っている。


「おお、間一髪だったなあ。怪我はねえか、親父?」


「親父……。まあ、歳は五十三だがな」


「五十三?そりゃまた渋い歳だ」


男は勝手に肩を叩きながら、にやにやと笑う。

その笑顔には、裏も影もない。

ただただ、目の前の出来事に全力で関心を向ける、そんな明るさがあった。


「俺は木下藤吉郎。人からは“猿”なんて呼ばれてるが、気にすんな。

あんた、ただ者じゃねえだろ?」


「ただの……男だ」


「嘘だな」


即答された。


藤吉郎は私の手をつかみ、ぐっと目を細める。


「この手……戦(いくさ)を知ってる。刀を握ったことがある。それも、並じゃねえ」


私は言葉を失った。

刀だったことは言えぬが、なぜわかるのか。


藤吉郎はさらに顔を寄せてくる。


「それに、あんた……見えるぜ。光が。

ほれ、刀の“地鉄(じがね)”みてえな輝きがさ」


私はドキリとした。

人の姿になって以来、誰も私を見向きしなかった。

錆びた刃のように、価値などないと思われていた。


だが、この若い男だけは違った。

人の皮の内側に隠れた何かを、真正面から見抜いていた。


「……あんた、妙な奴だな」


「よく言われる。でもな、鼻だけは利くんだ。

お前さん、使いこなせばとんでもねえ働きをする。俺にはわかる」


どこか懐かしい台詞だった。

かつて刀だった頃、主人に拾ってもらう日を夢見ていたあの頃の記憶が蘇る。


「俺の隊に来ねえか?」


唐突だった。


「この尾張は、もうすぐ大きく動く。

俺みてえな下っ端でも、手柄次第で出世できる世の中だ。

お前さんほどの“刃”を、埋もれさせるのは惜しい」


刃。

その言葉に、胸の奥で何かが音を立てた。


「……俺は、刃じゃない。今は・・・人だ」


「人ならいい。刃でもいい。

役に立つなら何でもいい。俺はそういう男だ」


藤吉郎は笑った。


その笑顔は、不思議と胸の重さを軽くした。



少し風が吹いた。

尾張の街を包む戦の匂いが、私の鼻先をかすめる。


私は気づけば、藤吉郎の差し出す手を握っていた。


「行こうぜ。俺とお前で、ひと暴れしてやろうや」


平凡な五十三の男と、猿と呼ばれる若武者。

このときの出会いが、のちの天下を揺るがす物語の始まりとなるのだった。

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