第2話

 街をやや遠くに望める川沿いを歩きながら、安栖あずみはイヤホンを両耳に填めた。

 音楽を再生させながら沈む夕日に向かって遊歩道を歩いていると、今日一日の労働で蓄積した疲労が何となく少し紛れるような気がして、安栖あずみは今の会社に就いて以来、早番のときは大抵徒歩で通っていた。


「むー……、今はこの曲の気分じゃない……」


 画面を睨み、今朝つくったばかりの再生リストにぶうぶう言いながらスクロールしていると——ピロリン、とチャットアプリの通知が鳴る。


 開くと、「藤咲ふじさき」なるハンドルネームからメッセージが送られてきていて、


『がっこうおわってスーパー行ってみたら』

『野菜めっちゃやすい』

『きょうは鍋』


 野菜、というワードに「うっ……」となりながらも、安栖あずみはメッセージの送り主——藤咲ふじさきりつに素早く返信した。


「鍋了解」「にんじんは入れないでね」

『だめ』『二十歳になってまで好き嫌いしないの』

「カロテンはにんじんの代わりにカボチャで摂取するし」「カリウムはバナナで取れる」「食物繊維はゴボウで、その他のビタミンは緑黄色野菜でカバーするから」

『…………』『なんでそんなに人参の成分に詳しいの?』


 まったくである。

 だが呆れることに、安栖あずみは何としても苦手な人参を避けるために、チャットで返信しつつ器用に別タブで人参の主成分について調べ上げ、そんな言い訳を並べていた。

 グーグル先生を参照していると、人参の成分にはサポニンというものもあることを知った。その栄養素は大豆やお茶に多く含まれているという新情報も安栖あずみは更なる理論武装で抵抗しようとする。


 が、


『でもダメなものはダメ』


 古から伝わる伝家の宝刀が返ってきた。強い。

 安栖あずみは「ぐっ……」と変な汗をかきながら、何とか悪あがきしようとする。


 ポチッと通話ボタンをタップし、通話越しの説得を試みる。

 文面より口頭で伝えた方が効果的であると、このときの安栖あずみは判断した。


「も、もしもしっ」

『もしもし。あんたがなんて言い訳しようが、絶対に鍋に人参は入れるよ』


 やばい、なんかもう色々くじけそう。

 とはなりつつも、いやしかし何としてもにんじんだけは避けなくてはならない。

 安栖あずみはやけに甘い声を出して、藤咲ふじさきを誘惑した。


「今日ね、帰りにケーキでも買って帰ろうと思うんだけど、藤咲ふじさきは何食べたい?」

『…………』


 僅かに通話口で押し黙る感触。

 ピリッと緊迫した空気が電波を伝って、ふたりだけの世界を包み込む。


 ——安栖あずみは、藤咲ふじさきが甘い物に目がないことを知っている。


 ケーキはもちろん、エクレア、ドーナツ、アイスクリーム——和でも洋でも駄でも甘い物を前にすれば、瞳にぽわぽわとハートマークを浮かべてしまうレベルである。

 それを交渉材料に持ち出し、安栖あずみは言外に「甘い物を買ってあげるから、その代わりににんじんは買わないでよね」と脅し——説得しているのだった。

 安栖あずみの誘惑は続く。


「この前藤咲ふじさきが行きたいって言ってたお店でミルフィーユでも買ってこようか、それとも隣街の期間限定でやってるフレジエにしようかなあ~」

『……………………』

「そういえばさっき駅前でクレープの出店も見かけたなあ~、ナッツとキャラメルいっぱいの、めちゃくちゃボリューミーで美味しそうなやつだったなあ~」

『…………………………………………』

「あ、ちょうどいいタイミングで思い出した。今日昼休みに可織かおりちゃんから教えてもらった、ちょっと高いけど贅沢気分も味わえるジェラートのお店もアリだなあ~」

『……………………………………………………………………………………』


 めちゃくちゃ長考するじゃん。どんだけ甘い物に弱いのよ、この子は。

 安栖あずみは思わずそう心の内でツッコむ。


 ……果たして長考の末に、藤咲ふじさきの苦々しい声音が返ってきた。


『いいでしょう、今日のところは負けてあげる。人参は買わないことにします』

「よっしゃ!」


 その言葉を待っていた、とばかりにガッツポーズをする安栖あずみ

 これが今晩鍋に人参が入らないことを知って大喜びする、二十歳児の姿である。


『そ、その代わりっ、ちゃんと約束通りスイーツ買ってくるのよ』

「あたぼうよ。んで、どこのお店のブツをご所望で?」

『…………っ』


 訊ねると、再び藤咲ふじさきは閉口する。

 藤咲ふじさき藤咲ふじさきで、安栖あずみの手のひらで転がされたことがそれなりに悔しいのである。『ぐぬぬ……』と威嚇するチワワのように唸った後、


『……【ピーティー…………の、…………なしミル………ユ…』


 恥ずかしさを押し殺しつつ、藤咲ふじさきは小さな声で言った。きっと通話口の向こうでは顔を真っ赤にしていたに違いない。

 安栖あずみはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、己のもぎ取った勝利に酔いしれる。


 くふっと笑いながら、安栖あずみ藤咲ふじさきの注文を復唱した。


「【Pity Frankly】の<底なしミルフィーユ>ね。分かった」


それから、


「てか藤咲ふじさき、あんた今どこのスーパーいるの? 今から私もそっち行くから、一緒に買い物した後、ふたりでミルフィーユ買いに行こうよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る