自堕落を手放し自立せよ!

戸森可依

藤咲ラブコメディ

第1話

「お先に失礼します、お疲れ様でした」

「「「おつかれさまでしたー」」」


 タイムカードを打ち、制服の上からガバッと荒っぽい手つきでコートを羽織ると、安栖あずみは誰よりも早く退勤した。

 スタッフルームから階段を下って、店舗裏口から外に出る。ドアを開けるとゴウッ、と冷たい風が身体に吹きつけ、安栖あずみの口から無意識に「寒っ」と洩れた。


 三月中旬。春も間近に迫った季節。帰路。風俗のちぐはぐな歓楽街を歩く。

 安栖あずみが歩くその細い通りは、スナックやバーが並ぶ裏路地に繫がっていた。


 ポイ捨てタバコや空き瓶、コンビニのビニール袋などのゴミが所々に散見される薄暗いこの通りは、ちょうど街のメインストリートの裏側に面している。

 ここを歩いていると、たまに、この通りに並ぶ店の従業員がタバコ休憩をしているところに鉢合わせる。


 安栖あずみが進む前方——そこには、すらっと身長の高い、手入れの行き届いた白いシャツに黒のスラックスを着こなした、やけに美人な女性の姿があった。


「あら、安栖あずみちゃん。おはよ」

荒瀧あらたきさん。おはようございます」


 時刻は午後四時。

 決して「おはようございます」の時間帯ではないのだが、夕方から働き出す夜の世界の住人からしてみれば、夕方こそが「朝」であった。

 安栖あずみに声をかけてきた美女——荒瀧あらたきは、自身の黒髪ハンサムショートに手をかける。知り合いとはいえ人と対面することを気にして、さりげなく髪に乱れがないか確認するあたりが、彼女らしい。左手にはセッタの黒い小箱が握られていた。


 顔を僅かに下方に向けて、咥えたタバコに火をつける。安栖あずみは、荒瀧あらたきの頬と首筋が僅かに赤らんでいることに気付いて「またこの人は出勤前にお酒を飲んできたんだな……」と苦笑した。


安栖あずみちゃん、今日は早番だったの?」

「うん、朝八時から労働」

「八時? よくもそんな時間に起きれるね。あたしには絶対無理だよ」


 本当はタイムカードの打刻が午前八時であって、つまりその時間に間に合うように出勤しないといけないため、もっと早くに起きて身支度して店に着いていないといけないのだが、日常会話でそんな細かな事情をつぶさに語る必要などない。 


 安栖あずみは、「まあね」と曖昧に頷く。


荒瀧あらたきさんは、これから労働? それとも今日は開店作業だけ?」

「後者だったら、どれだけ楽だったか……。次の休日まで七連勤よ」


 たはは……と、白く灰がちになって自嘲気味に笑う荒瀧あらたき


「社畜なバーテンダーにアーメン」と安栖あずみは静かに合掌した。

「うーん、多分アーメンというより、のが正しいけどね」と荒瀧あらたきもふざけて十字架をきった。


「ところで安栖あずみちゃん、次のお休みいつ? また飲みに行こうよ」

「いいよ。来月のあたまにはなんと三連休があるから、そこらへんで被れば」


 言いながら、安栖あずみは写メに撮ったシフト表を荒瀧あらたきに見せる。

 ……と、荒瀧あらたきの隈のできた目元がくしゃっと枯れた花のように萎れた。


「なんと、来月のあたしらの休日、一日も被らない件について……」


 え、マジで? と安栖あずみは目をしばたかせる。

 荒瀧あらたきはペラリと紙で、自身のシフト表を胸ポケットから取りだした。


 安栖あずみはそれに目を通すと、


「——え、七連勤からの一日お休み、その後六連勤、一日休み……それからまた七連勤からの一日休みで、翌週からまた七連勤……」


 これって、労基的に大丈夫なんですか……?

 思わず口元がひくついた。


「……しかもシフト上休みになってるそれらの休日は、なんと夕方から開店作業を手伝いに二、三時間ほど出勤しければならないという、本当にあった怖い話」


 ……怖すぎる。

 休日出勤とかいう、身近に潜むサイコホラー。


 も、もちろん、手当は付きますよね……?

 安栖あずみはおずおずと、死んだ顔をしている荒瀧あらたきに視線を向ける。


 ここで手当が付くか付かないかで、くだんのサイコホラーがスプラッタホラーへと変貌を遂げる可能生が出てくる。


 果たして、荒瀧あらたきの答えは——


「……もちろん付くよ、残業手当」

 

 よかった、無惨には死なないようだった。無惨には。

 過労で死ぬことには変わりはないが。

 荒瀧あらたきは重々しく煙を吐くと、切実な口調で言った。


「割増でがっつり付くけど、貰った給料を使う時間がないんだよね、連勤続きで」

「……連勤続きでお亡くなりになったら、私が荒瀧あらたきさんの骨を拾ってあげるよ」

「どうだろうね。拾うだけの骨なんて残るかな。働き過ぎて軟骨化してそう」

、だけに?」

「……『拾う』と『疲労』だけに?」

「そう、『疲労』と『拾う』だけに」

「やかましいわ」


 荒瀧あらたきはしかし地味に肩を揺らしながらもう一口分、深く煙を肺に落とした。

 そんな感じでいつものように二人は十分ほど雑談をした後、


「やばっ、そろそろ戻らないと」


 という荒瀧あらたきの若干焦った呟きでガールズトークはお開きになった。

 荒瀧あらたきはパタパタと勝手口に向かい、ドアノブに手を掛ける。


「それじゃあ安栖あずみちゃん、またね。あたしは戦場に向かうとするよ」


 さっきの飲みの約束は絶対よ、とさりげなくウィンクも付け足す。


「うん、じゃあね。今日もおしごと頑張ってね、荒瀧あらたきさん」


 安栖あずみは手を振って、仕事場に戻っていく荒瀧あらたきの背中を見送った。

 勝手口そばには【Bar BUM/RUM】と彫られた小さな看板。


 安栖あずみ——安栖花子あずみはなこ荒瀧あらたきと別れ、その裏通りを抜けると、住宅地の方角へ向かって帰路を辿った。

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